退職金制度を巡るトラブルは、中小企業においても決して珍しくありません。「退職金を払うと約束したのに支払われない」「懲戒解雇でも退職金を請求された」「制度を廃止したら従業員から反発を受けた」——こうした事例は、制度設計や法律知識の不足から生じることがほとんどです。
退職金制度は法律上の義務ではありませんが、一度導入すれば法的拘束力が生じ、その後の変更や廃止には厳格なルールが適用されます。中小企業の経営者・人事担当者がこの制度を正しく理解し、適切に運用することは、従業員との信頼関係を維持するうえでも、労務トラブルを防ぐうえでも非常に重要です。
本記事では、退職金制度に関わる法的留意点を体系的に解説します。これから導入を検討している方も、すでに運用中で見直しを考えている方も、ぜひ参考にしてください。
退職金制度の基本:義務ではないが、導入すれば「賃金」として保護される
まず大前提として、退職金制度の設置は法律上の義務ではありません。労働基準法にも、退職金を必ず支払わなければならないという規定はなく、導入するかどうかは各企業が任意に決定できます。
しかし、ひとたび退職金制度を設けると、その性格は大きく変わります。労働基準法第11条では、退職金は「賃金」に該当すると解釈されており、賃金として法的保護の対象になります。つまり、就業規則や退職金規程で「支給する」と定めた以上、会社側が一方的にその支払いを拒否したり、不当に減額したりすることは原則として認められません。
また、退職金規程を設ける場合は、就業規則本体または別規程として必ず記載することが求められます(労働基準法第89条)。従業員数が10人以上の事業場では、就業規則の届出義務もあります。口頭での約束や、曖昧な社内慣行として退職金を支払い続けていると、その慣行自体が労働契約の内容として認められるリスクもあるため、制度の有無や内容を書面で明確にしておくことが不可欠です。
さらに、退職金の支払い時期については、退職した従業員から請求があった場合、退職後7日以内に支払うことが原則とされています(労働基準法第23条)。支払いが遅れると、賃金の遅延として法的問題に発展する可能性があります。
退職金規程に必ず盛り込むべき記載事項
退職金制度を導入する際に最も重要なのが、退職金規程の設計です。規程の内容が不明確・不十分であると、後々のトラブルの温床になります。以下の項目を漏れなく明記することが実務上の基本です。
- 支給対象者:正社員のみか、パートタイム労働者・有期雇用労働者も含むか
- 計算方法:基本給×勤続年数×支給率など、具体的な算定式
- 支給事由の区分:自己都合退職・会社都合退職・定年退職・死亡退職など、事由ごとの支給額の違い
- 支払時期・方法:退職後何日以内に、どのような方法で支払うか
- 不支給・減額事由:懲戒解雇時や競業避止義務違反時の取り扱い
特に注意が必要なのは、表現の曖昧さです。「退職金の支給を検討する」「状況に応じて支払う努力をする」といった表現は、一見すると義務を負わないように見えますが、実際には支給義務が認められると判断されるリスクがあります。制度を設けるのであれば明確に規定し、設けないのであれば「退職金は支給しない」と明記しておくことが望ましいといえます。
また、退職金規程は就業規則本体の一部として記載する方法と、就業規則とは別の規程として作成する方法があります。いずれの形式であっても、従業員への周知と、労働基準監督署への届出を徹底してください。周知がなされていない規程は、法的な効力が認められない場合があります。
懲戒解雇時の退職金不支給・減額は「規程への明記」が絶対条件
懲戒解雇となった従業員に対して退職金を支払いたくないというケースは少なくありません。しかし、懲戒解雇を理由に退職金を不支給にしたり減額したりするためには、その旨が退職金規程に明確に記載されていることが絶対条件です。規程に定めがない状態で会社側が一方的に不支給とした場合、後から請求を受けて支払いを余儀なくされる可能性があります。
さらに、規程に不支給条項があったとしても、全額不支給が認められるのは限られたケースに限られます。裁判例の傾向を見ると、退職金の全額不支給が認められるのは、「退職金の全額を不支給とするほどの重大な背信行為」があった場合です。横領や背任、重大な競業避止義務違反などは認められやすい一方で、軽微な規律違反や一時的なトラブルを理由にした全額不支給は、裁判で無効とされるリスクが高いとされています。
こうしたリスクを踏まえると、「懲戒解雇時は退職金の50%を支給する」といった減額規定を設けておくことが実務上は現実的です。全額不支給という強硬な規定だけを置くよりも、段階的な減額規定を組み合わせることで、会社側の柔軟な対応が可能になります。
なお、不支給・減額条項を適用する際には、懲戒処分の手続きが適正であること(就業規則に定められた手続きを経ていること)も求められます。手続きに瑕疵がある場合、懲戒解雇自体が無効となり、退職金の全額支払い義務が生じる可能性もあります。
制度の変更・廃止には従業員の同意と厳格な手続きが必要
経営環境の変化によって、退職金制度を見直したい・廃止したいというケースも出てきます。しかし、退職金制度の減額や廃止は「労働条件の不利益変更」にあたり、非常に厳格なルールが適用されます。
労働契約法第9条では、就業規則を変更することによって労働者に不利益な労働条件を課すことは、原則として労働者の合意なしには認められないとしています。退職金の減額・廃止は典型的な不利益変更に該当するため、原則として個別の書面による従業員の同意が必要です。
ただし、全員から同意を得られない場合でも、労働契約法第10条の要件を満たせば変更が認められる場合があります。その要件は以下のとおりです。
- 変更の必要性:経営上やむを得ない合理的な理由があること
- 変更内容の相当性:労働者が受ける不利益の程度が過大でないこと
- 代替措置・経過措置:激変緩和のための措置が講じられていること
- 周知:変更後の就業規則が従業員に適切に周知されていること
特に注意が必要なのは、すでに積み立てられた(従業員が取得した権利として認められる)退職金については、既得権として保護される可能性が高い点です。制度廃止時には、廃止前の期間分の退職金はすでに発生した権利として取り扱う経過措置を設けることが一般的です。
制度変更・廃止を検討する際は、弁護士や社会保険労務士に事前相談することを強く推奨します。手続きを誤ると、後から集団的な訴訟リスクを招く可能性があります。
パート・有期社員との退職金格差と同一労働同一賃金への対応
2021年4月から中小企業にも適用が拡大されたパートタイム・有期雇用労働法(以下、パート・有期法)は、退職金制度にも大きな影響を与えています。同法第8条は、基本給・賞与・退職金を含むあらゆる待遇について、正社員と非正規社員の間に不合理な差を設けることを禁じています。
正社員には退職金を支給しているがパートや有期契約社員には支給しない、という制度設計は、同一労働同一賃金(不合理な格差の禁止)の観点から法的リスクをはらんでいます。
2020年の最高裁判決(メトロコマース事件・大阪医科薬科大学事件)では、退職金の不支給が直ちに不合理とは言えないとする判断も示されました。ただしこれらの判決は、あくまで当該事件の具体的な職務内容・異動範囲・雇用期間等を総合的に考慮したうえでの判断です。すべての非正規社員への不支給が合法と認められたわけではありません。職務内容や責任の範囲によっては、不支給が不合理な格差と判断されるリスクは依然として残ります。
実務上の対応として、以下の点を整備しておくことが重要です。
- 正社員と非正規社員の職務内容・責任範囲・異動の有無などを明確に整理し、書面で保管する
- 正社員のみに退職金を支給する合理的な理由を説明できるようにしておく
- 将来的なリスク低減のため、勤続年数や職務内容に応じたパート・有期社員向けの退職金制度(別設計)の導入を検討する
「正社員だから退職金がある、非正規だからない」という区別が当然だという時代は終わりつつあります。制度設計の段階から、非正規社員の待遇も含めて整合性のある制度を構築することが求められています。
中退共の活用と退職金の税務処理
中小企業退職金共済(中退共)の活用
自社で退職金を積み立てることに不安を感じる中小企業にとって、中小企業退職金共済制度(中退共)は有力な選択肢です。中退共は、国が管轄する中小企業向けの外部積立制度で、以下のようなメリットがあります。
- 掛金の全額損金算入:法人の場合、掛金は全額損金として計上でき、税負担の軽減につながります
- 国庫補助:新規加入時や掛金増額時に一定の国庫補助があります
- 倒産時のリスク回避:運用・支払いは中退共が直接行うため、企業が倒産しても従業員の退職金は保護されます
- 管理の簡便さ:自社で積立管理をする必要がなく、事務負担が軽減されます
一方で、一度加入した従業員の掛金を減額することが原則として難しい点や、懲戒解雇時でも中退共から従業員に直接支払われる仕組みのため、不支給・減額対応が制限されるという点には注意が必要です。制度の特性を十分に理解したうえで活用を検討してください。
退職金の税務処理:退職所得控除の仕組み
退職金は「退職所得」として給与所得とは分離して課税されます。退職所得は税制上優遇されており、退職所得控除という大きな控除が認められています。
退職所得控除額の計算方式は以下のとおりです。
- 勤続年数20年以下の場合:40万円×勤続年数(最低80万円)
- 勤続年数20年超の場合:800万円+70万円×(勤続年数-20年)
なお、2022年度税制改正により、勤続年数5年以下の短期退職者については、退職所得の2分の1課税(退職所得控除後の金額を2分の1にしてから課税する特例)の適用に制限が設けられました。具体的には、短期退職者の退職金のうち、退職所得控除額を超える部分が300万円を超える場合、その超過分については2分の1課税の恩恵が受けられなくなっています。退職金の設計や支払い時には、税理士に確認することをお勧めします。
実践ポイント:今すぐ確認すべき5つのチェック項目
最後に、中小企業の経営者・人事担当者が今すぐ確認すべき実践的なチェック項目をまとめます。
- 退職金規程の有無と内容の確認:退職金を支給する慣行があるにもかかわらず規程が存在しない場合、あるいは規程の内容が曖昧な場合は、今すぐ整備が必要です。
- 就業規則への適切な記載と届出の確認:退職金規程が就業規則本体または別規程として記載され、労働基準監督署に届出されているかを確認してください。従業員への周知も必須です。
- 不支給・減額条項の有無と妥当性の確認:懲戒解雇時の取り扱いが規程に明記されているか、その内容が裁判例に照らして適切かを専門家とともに確認しましょう。
- 非正規社員の待遇との整合性の確認:正社員と非正規社員の退職金の取り扱いについて、不合理な格差が生じていないか、合理的な理由を説明できるかを整理してください。
- 制度変更・廃止を検討している場合は事前相談を:いきなり変更を通知するのではなく、弁護士や社会保険労務士に相談したうえで、適切な手続きと経過措置を踏んで進めることが不可欠です。
まとめ
退職金制度は任意制度でありながら、一度導入すれば法的拘束力が生じ、その運用・変更・廃止には労働基準法・労働契約法・パートタイム・有期雇用労働法など複数の法律が関わってきます。「なんとなく払ってきた」「昔から慣行としてあった」という状態のまま放置すると、思わぬトラブルに発展するリスクがあります。
大切なのは、制度の有無を明確にし、規程として適切に文書化し、従業員に周知することです。また、非正規社員への対応や懲戒解雇時の取り扱いなど、現代の法的要請に沿った内容になっているかを定期的に見直すことも重要です。
退職金制度の設計・見直しは、社会保険労務士や弁護士といった専門家のサポートを受けながら進めることで、リスクを最小化しながら適切な制度を構築することができます。本記事を一つのきっかけとして、自社の退職金制度の現状を今一度確認されることをお勧めします。
よくある質問
Q1: 退職金制度を導入しなければ、退職金を支払う必要はないのでしょうか?
はい、退職金制度の設置は法律上の義務ではなく、導入するかどうかは企業の任意です。ただし、一度制度を導入すれば退職金は「賃金」として法的保護の対象となり、支払い義務が生じるため注意が必要です。
Q2: 懲戒解雇された従業員には退職金を支払わなくても良いのですか?
懲戒解雇を理由に退職金を不支給にするには、その旨が退職金規程に明確に記載されていることが絶対条件です。規程に定めがない場合は支払い義務が認められます。また、規程があっても全額不支給が認められるのは横領など重大な背信行為のみで、通常は減額規定の方が現実的です。
Q3: 退職金規程に『状況に応じて支払う努力をする』と書いておけば、支払い義務を避けられますか?
いいえ、そのような曖昧な表現であっても、実際には支給義務が認められると判断されるリスクがあります。制度を設けるなら明確に規定し、設けないなら「支給しない」と明記することが重要です。
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