従業員のメンタルヘルス対策として2015年12月に義務化されたストレスチェック制度。しかし、「うちは小さい会社だから関係ない」「罰則がないから後回しでいい」といった誤解が、中小企業の経営者・人事担当者の間では今も根強く残っています。
実際のところ、ストレスチェック制度には複数の義務が存在し、違反した場合のリスクは単純な罰金額にとどまりません。労働基準監督署(以下、労基署)による行政指導、企業の社会的評価の低下、さらには労災認定や損害賠償請求に発展するケースも報告されています。
本記事では、ストレスチェックの実施義務違反に伴う罰則の法的構造と、行政指導の実態をわかりやすく解説します。自社の対応状況を見直すきっかけにしていただければ幸いです。
ストレスチェックの「実施義務」と「努力義務」の違いを正確に理解する
まず前提となる制度の枠組みを整理します。ストレスチェック制度の根拠法令は労働安全衛生法第66条の10です。この規定によって、事業場の従業員数に応じて義務の内容が異なります。
- 常時50人以上を使用する事業場:年1回以上のストレスチェック実施が義務(実施義務)
- 常時50人未満の事業場:実施することが望ましいとされる努力義務
「50人未満なら完全に対象外」と思い込んでいる経営者は少なくありませんが、努力義務がある以上、まったく無関係とは言い切れません。また、実施義務のある事業場には毎年、所轄の労基署への報告義務も課されています。この報告義務こそが、のちに解説する行政指導のきっかけになるケースが多いため、見落としのないよう注意が必要です。
「常時使用する労働者数」の計算方法
50人という閾値を判断する際の「常時使用する労働者数」の計算には、一定のルールがあります。
- 正社員・契約社員・パートタイマー:週の所定労働時間が通常労働者の4分の3以上であれば算入
- 派遣労働者:派遣先事業場の人数として算入(派遣元ではなく派遣先でカウント)
- 出向者:出向先で実際に業務に従事している場合は出向先に算入
「正社員だけで数えたら50人未満だった」という判断は誤りになる可能性があります。パートや派遣スタッフを含めた人数で改めて確認してください。また、複数の事業場を持つ企業の場合は、各事業場単位でカウントする点にも留意が必要です。
罰則の法的構造:「未実施そのもの」への直接罰則はない
ここで多くの方が誤解しているポイントを整理します。ストレスチェックの未実施そのものに対する直接的な罰則規定は、現行法には存在しません。これが「罰則がないから大丈夫」という誤解の元になっているわけですが、実態はそれほど単純ではありません。
法的に罰則が設けられているのは、以下のケースです。
- 報告義務違反(虚偽の報告・報告不履行):労働安全衛生法第120条第5号により、50万円以下の罰金
- 立入検査の拒否・妨害:同じく50万円以下の罰金
さらに重要なのが両罰規定の存在です。これは、違反行為に対して事業者(法人)だけでなく、実際に行為を行った担当者個人も処罰の対象となり得るという規定です。つまり、人事担当者や総務担当者個人が罰金を科される可能性があるということです。
「50万円以下と聞いて安心した」という声もありますが、罰金そのものよりも、行政指導のプロセスで生じる社会的・経営的ダメージのほうが深刻になるケースがあります。この点については次の項目で詳しく解説します。
行政指導の実態:どのようなきっかけで調査が入るのか
労基署によるストレスチェック関連の調査は、主に以下のきっかけで始まります。
- 定期監督:労基署が行う一般的な労働基準法令の調査(いわゆる「臨検」)の際にあわせて確認される
- 報告書の未提出:ストレスチェック実施状況報告書を提出していないことが端緒となり、労基署から問い合わせが来る
- 労働災害の調査:特にメンタルヘルス不調による労災申請が行われた際に、ストレスチェックの実施状況が確認される
- 従業員・元従業員からの申告:労働相談窓口への申告が調査のきっかけになるケースもある
特に注意したいのは「報告書の未提出」が調査の入口になりやすい点です。ストレスチェックを実施していたとしても、実施状況報告書を所轄労基署に提出していなければ違反とみなされます。報告書は、ストレスチェックを実施した年度内に遅滞なく提出することが求められています。提出時期の詳細については所轄の労基署に確認してください。
行政指導から送検までのプロセス
調査が入ってから実際に法的措置が取られるまでの流れは、一般的に以下のような段階を経ます。
- ①報告書未提出 → 労基署からの問い合わせ・来署要求
- ②調査・事情聴取 → 違反事実の確認
- ③口頭指導・文書指導 → 是正勧告書の交付
- ④改善報告書の提出 → 改善状況の確認
- ⑤再違反・悪質事案 → 送検・公表(事例は限定的だが存在する)
行政指導の段階では法的な強制力はありません。しかし、是正勧告を無視したり虚偽の報告を行ったりすれば、より重い措置へと進む可能性があります。労基署は労働安全衛生法第99条に基づき、事業者に対して勧告・指示を行う権限を持っています。
罰金より怖い「罰金以外のリスク」
ストレスチェック義務違反に伴うリスクは、50万円以下の罰金だけではありません。むしろ経営上のダメージという観点では、以下の影響のほうが深刻になることがあります。
企業名の公表リスク
厚生労働省は、労働基準関係法令に違反した事業場について、「労働基準関係法令違反に係る公表事案」として企業名を公表する仕組みを設けています。法令違反が確定した場合、企業の社会的評価が損なわれ、採用活動や取引先との関係に影響が生じる可能性があります。
安全配慮義務違反に基づく損害賠償リスク
使用者(企業)には、労働者の健康や安全に配慮する義務(安全配慮義務)があります。これは労働契約法第5条に明記されており、民法415条(債務不履行)や709条(不法行為)に基づく損害賠償請求の根拠にもなります。
ストレスチェックを実施していなかった事実は、「企業がメンタルヘルス対策を怠っていた」という証拠として機能し得ます。従業員がメンタルヘルス不調で休職・退職した場合や、過労自殺などの深刻な事態が発生した場合、ストレスチェック未実施の事実が裁判で不利に働く可能性は無視できません。
労災認定との連動リスク
メンタルヘルス不調による労災申請が行われた際、ストレスチェックの実施状況は調査対象の一つとなります。未実施であれば、企業が安全配慮義務を果たしていなかったと判断される材料になり得ます。労災認定そのものへの影響に加え、認定後の損害賠償請求にもつながる可能性があります。
メンタルヘルス対策全体の見直しには、メンタルカウンセリング(EAP)の導入も有効な手段の一つです。ストレスチェックと組み合わせることで、従業員の早期支援体制を整えることができます。
今日から取り組む実践ポイント
自社の対応状況を点検し、必要な是正措置を取るために、以下のチェックリストを参考にしてください。
Step1:自社の義務区分を確認する
まずパートや派遣スタッフを含めた「常時使用する労働者数」を正確に算出し、実施義務の対象かどうかを確認します。複数の事業場がある場合は、各事業場ごとに判断が必要です。
Step2:実施体制を整備する
ストレスチェックには、法定要件を満たした「実施者」の選任が必要です。実施者になれるのは、医師・保健師・厚生労働大臣が定める研修を修了した看護師・精神保健福祉士・公認心理師です。産業医がいる事業場では産業医が実施者を担うことが多いですが、産業医が選任されていない場合は外部機関への委託が現実的な選択肢になります。
なお、人事権を持つ者は実施事務従事者になれないという制限があります。個人情報を取り扱う担当者を決める際は、この点に注意してください。
産業医の選任と活用については、産業医サービスの活用も検討に値します。専門家のサポートにより、ストレスチェックの実施から高ストレス者への面接指導まで、一体的な体制を構築することができます。
Step3:実施後の報告書を忘れずに提出する
ストレスチェックを実施した後は、「心理的な負担の程度を把握するための検査結果等報告書」(ストレスチェック実施状況報告書)を所轄の労基署に提出する必要があります。提出はストレスチェックを実施した年度内に遅滞なく行うことが求められています。この報告が未提出であることが行政指導の発端になるケースが多いため、実施後は速やかに準備を進めてください。提出時期の詳細については所轄の労基署に確認することをお勧めします。
Step4:結果の適切な保管を行う
ストレスチェックの結果は5年間の保存が求められています。紙媒体・電子データのいずれの場合も、個人情報として適切に管理し、人事権を持つ者が閲覧できない状態に保つことが必要です。
Step5:高ストレス者への面接指導の仕組みを整える
ストレスチェックで高ストレスと判定された従業員が面接指導を希望した場合、事業者は医師(産業医など)による面接指導を実施しなければなりません。この仕組みが整っていなければ、ストレスチェックを実施しても制度の目的を果たしたとは言えません。
まとめ
ストレスチェック実施義務違反に関する要点を整理します。
- 常時50人以上の事業場は実施義務・報告義務がある。50人未満の事業場も努力義務の対象
- ストレスチェック未実施そのものへの直接罰則は現行法には存在しないが、報告義務違反には50万円以下の罰金が課される可能性がある
- 両罰規定により、担当者個人も処罰対象となり得る
- 行政指導は報告書の未提出や労災申請をきっかけに始まることが多い
- 罰金以外にも、企業名の公表・損害賠償リスク・労災認定との連動など、経営上の深刻なリスクが存在する
「罰則が軽いから後回し」という判断が、後になって大きな経営リスクとなって表れることがあります。制度の正確な理解と、適切な実施体制の構築を今一度見直してみてください。
よくある質問(FAQ)
ストレスチェックを一度も実施したことがないが、今から始めれば問題は解消されるのか?
過去の未実施分を遡って実施する義務はありませんが、現時点から適切に実施し、報告書を提出することが重要です。ただし、過去に未実施だった期間中に従業員がメンタルヘルス不調を発症した場合、その期間の未実施が安全配慮義務違反の根拠として取り上げられる可能性があります。まずは所轄の労基署や社会保険労務士などの専門家に相談し、適切な対応を取ることをお勧めします。
パートタイマーが多く、正社員は30人だが実施義務はあるか?
「常時使用する労働者数」の計算には、週の所定労働時間が通常の労働者の4分の3以上のパートタイマーも含まれます。正社員が30人であっても、要件を満たすパートタイマーを加えた合計が50人以上になる場合は実施義務の対象となります。派遣スタッフについては派遣先でカウントする点も含め、改めて人数を確認してください。
産業医がいない場合、ストレスチェックの実施者は誰になるのか?
産業医が選任されていない場合でも、保健師・厚生労働大臣が定める研修を修了した看護師・精神保健福祉士・公認心理師などが実施者の要件を満たします。社内にこれらの資格者がいない場合は、外部の機関(健診機関やEAP事業者など)に委託する方法が現実的です。委託先がストレスチェックの法定要件を満たしているかどうかを事前に確認することが重要です。







