「退職金規程がない会社が今すぐ知るべき法的リスクと対応策」

「うちには退職金制度がないから、退職金を払う必要はない」──そう思い込んだまま事業を続けている中小企業は少なくありません。しかし実際には、規程がないにもかかわらず退職金の支払いを求められ、労働審判や訴訟へと発展するケースが後を絶たないのが現状です。

退職金規程がない状態には、経営者が気づいていないさまざまな法的リスクが潜んでいます。過去の支払い実績、口頭での約束、不明確な雇用契約書──これらのどれか一つが、思わぬトラブルの火種になりえます。本記事では、退職金規程をめぐる法律の基本から、中小企業が今すぐ取り組むべき実践的な対応策まで、わかりやすく解説します。

目次

退職金は法律上の義務ではない──しかし「義務になる場合」がある

まず大前提として、退職金の支払いは労働基準法上の義務ではありません。退職金の支払いを使用者(企業)に強制する条文は、労働基準法のどこにも存在しません。この点は、多くの経営者が漠然と不安を抱えている部分ですが、法律上は「退職金を支払わなくてもよい企業」が存在することは事実です。

ただし、ここからが重要です。「制度がないから払わなくていい」という論理は、必ずしも成立しないケースがあります。具体的には次の二つの状況で、規程がなくても退職金の支払い義務が生じる可能性があります。

慣行(労働慣行)による支払義務

過去に退職者へ繰り返し退職金を支払ってきた実績がある場合、それが「黙示の合意」または「労働慣行」として法的拘束力を持つと判断されることがあります。裁判例では、①同種事例での支払いが反復・継続していること、②使用者と労働者の双方がその慣行を認識していること、の二点が主な判断基準とされています。

「毎回それなりの金額を渡してきたが、明文化していなかった」という場合、後から「制度はなかった」と主張しても認められない可能性があります。

個別合意による支払義務

「退職金は出す」「○年勤めたら退職金を払う」と口頭やメール、LINEなどで伝えてしまった場合、それが個別の労働契約上の約束として有効と認められることがあります。「口頭だから証拠にならない」と考えるのは危険で、労働審判や裁判では発言の状況・前後のやり取り・証人等から事実認定が行われます。

つまり、退職金規程がないからといって安心できるわけではなく、日々の言動や支払い実績が見えないところでリスクを積み重ねている可能性があるのです。

就業規則と退職金規程の関係──記載義務を正しく理解する

労働基準法第89条第3号の2は、退職金制度を設けた場合には、就業規則への記載が義務づけられると定めています。なお、常時10人以上の従業員を雇用する事業場には就業規則の作成・届出義務がありますが、10人未満の事業場には作成義務がありません。

ここで注意すべき点が二つあります。

  • 「退職金制度を設けた場合に」就業規則への記載が必要であり、制度がない場合に記載義務が生じるわけではない
  • 一度退職金制度を就業規則に定めると、それは「賃金」に準ずるものとして扱われ、勝手に廃止・減額する不利益変更は労働契約法第10条によって厳しく制限される

後者の点は特に重要です。「経営が厳しくなったから退職金をなくす」という判断は、法律上容易ではありません。廃止・減額には、代償措置の提供や従業員への十分な説明・同意取得など、合理的な手続きが必要とされます。こうした手続きを踏まずに実施すると、変更自体が無効と判断されるリスクがあります。

また、退職金債権(退職金を受け取る権利)の消滅時効は5年です(令和2年の民法改正後。経過措置として当面は3年が適用される場合もあります)。退職後も長期間にわたって請求が可能なため、過去の曖昧な対応が後になってトラブルの原因になることもあります。

「制度なし」を明確化するか、新設するか──今すぐ選択が必要な理由

現状の法的リスクを踏まえたうえで、経営者が取るべき選択肢は大きく二つです。①退職金制度を設けないことを明確化するか、②退職金制度を新設・整備するかです。どちらを選ぶにせよ、「曖昧なまま放置する」という現状維持が最もリスクの高い選択であることを、まず認識してください。

「制度なし」を明確化する場合の手順

退職金を支払わないことを明確にしたい場合は、以下の手順で対応することが推奨されます。

  • 就業規則または雇用契約書に「退職金制度なし」を明記する
  • 既存の従業員に対して、書面で説明・周知を行い、その記録を保管する
  • 今後の採用時には労働条件通知書に「退職金なし」を明記する(ハローワークの求人票も同様)

ただし、過去に退職金を支払ってきた実績がある場合や、口頭で支払いを約束した経緯がある場合は、この方法だけでは不十分なことがあります。その場合は、労働問題に詳しい社会保険労務士や弁護士に相談のうえ、個別対応を検討することが必要です。

退職金制度を新設する場合の手順

新たに退職金制度を整備する場合は、以下の手順で進めます。

  • 支給条件(勤続年数・退職理由・自己都合か会社都合かの区別)・計算方法・支払時期を明確に規定する
  • 就業規則に退職金規程として追記し、10人以上の事業場であれば労働基準監督署へ届け出る
  • 従業員への周知義務を果たす(掲示・配布・社内ポータルへの掲載等)
  • 財源の確保方法(後述する中退共や確定拠出年金など)を同時に決定する

制度の新設は従業員にとって有利な変更であるため、不利益変更とは異なり比較的スムーズに進められます。しかし「退職直前に急いで制度を作った」などの状況は、意図的な操作と受け取られるリスクもあるため、平時からの計画的な整備が重要です。

中小企業が活用できる退職金制度──中退共を中心に

退職金制度を新設する際、中小企業に特に適した公的制度として中小企業退職金共済(通称:中退共)があります。中退共とは、国が設立した退職金の共済制度で、中小企業が加入できるものです。主なメリットは次のとおりです。

  • 掛金が全額損金算入(税務上の費用として認められる)されるため、節税効果がある
  • 新規加入時や掛金増額時に国からの助成を受けられる場合がある
  • 退職金の支払いは中退共が直接行うため、会社の管理コストが低い
  • 従業員が退職した際に確実に支払われるため、会社の資金繰り悪化時のリスクを回避できる

一方で注意点もあります。中退共はあくまで支払い手段・財源管理の仕組みであり、就業規則への退職金規程の記載は別途必要です。「中退共に加入していれば就業規則は不要」という誤解は避けてください。

このほか、従業員自身が運用する企業型確定拠出年金(企業型DC)や、商工会議所・商工会が運営する特定退職金共済なども選択肢として検討できます。それぞれの制度には特徴があるため、自社の規模・業種・従業員構成に応じた選択が求められます。

退職金トラブルが労働審判に発展する前に──早期対応の重要性

退職金をめぐるトラブルは、労働審判や民事訴訟へと発展した場合、会社側にとって時間的・金銭的・精神的な負担が非常に大きくなります。労働審判は申し立てから原則3回以内の期日で審理が行われる迅速な制度ですが、その分、準備が不十分な状態では不利な条件での和解を迫られるリスクがあります。

特に、慣行による支払義務が認められた場合や、口頭合意の存在が立証された場合、「規程がないから払わない」という主張は通りにくくなります。また、退職金は「賃金」に準じて扱われるため、未払い状態が続くと附加金(ペナルティ的な追加支払い)の対象になる可能性も否定できません。

こうしたリスクへの対応として、従業員のメンタルヘルス管理や労務問題の早期発見を支援するメンタルカウンセリング(EAP)を導入している企業では、退職に至る前の段階で従業員との関係悪化を防ぐ取り組みも有効とされています。退職金トラブルの多くは、退職前後の関係性の悪化が引き金になるケースも多いためです。

今すぐ取り組む実践ポイント

退職金規程のリスクに対応するための実践ポイントを整理します。

ステップ1:現状の慣行リスクを洗い出す

まず、過去に退職した全従業員に対して退職金を支払ってきたかどうかを記録で確認します。支払い実績がある場合、その金額・計算根拠・支払い状況を整理し、慣行として認められるリスクがあるかどうかを判断する必要があります。

ステップ2:口頭・メール等での約束を確認する

採用面接や退職交渉の場で「退職金を払う」と伝えた可能性がないか、関係者にヒアリングします。メールやLINEなどの記録も確認し、問題になりうる発言がある場合は早めに法的リスクを評価してください。

ステップ3:「なし」か「あり」かを明文化する

いずれの方針をとる場合も、就業規則・雇用契約書・労働条件通知書に明記します。特に新規採用者との契約から順次整備していくことで、将来的なトラブルのリスクを大幅に減らすことができます。

ステップ4:制度新設の場合は財源確保も同時に進める

退職金制度は「定めること」と「支払えること」の両方が必要です。中退共などの外部積立制度を活用することで、将来の支払い財源を確保しながら、社内の管理負担を抑えることができます。

ステップ5:専門家への相談を躊躇しない

すでにトラブルの兆候がある場合や、過去の支払い実績が複雑な場合は、社会保険労務士や弁護士に早期相談することをお勧めします。また、従業員の健康管理・職場環境の整備を総合的にサポートする産業医サービスの活用も、職場のリスクマネジメントの一環として検討に値します。

まとめ

退職金規程がない状態は、「払わなくていい」という安全地帯ではなく、慣行・口頭合意・個別契約などによって思わぬ支払い義務が生じうるリスクゾーンです。法律が支払いを義務づけていないからこそ、企業側が自らのルールを明確に定めて管理することが、トラブル防止の唯一の手段といえます。

「制度なし」を明確にするのか、中退共などを活用して新設するのか──どちらを選択するにしても、曖昧な状態の放置が最もリスクの高い経営判断であることを忘れないでください。まずは現状の洗い出しから始め、必要に応じて専門家のサポートを受けながら、着実に整備を進めることが大切です。

退職金規程がない場合でも退職金を請求されることがありますか?

はい、あります。過去に退職金を繰り返し支払ってきた実績がある場合(労働慣行の成立)や、口頭・メール等で「退職金を払う」と約束した場合(個別合意)は、就業規則上の規程がなくても支払い義務が認められる可能性があります。「規程がないから払わなくていい」という考えは必ずしも法的に通用しないため、現状の洗い出しと明文化が重要です。

退職金制度をなくしたい場合、どのような手続きが必要ですか?

すでに就業規則に退職金規程が定められている場合、その廃止・減額は「不利益変更」にあたり、労働契約法第10条により合理的な理由と適切な手続きが必要です。代償措置の提供や従業員への十分な説明・同意取得を行わずに廃止した場合、変更自体が無効と判断されるリスクがあります。変更を検討する際は、社会保険労務士や弁護士への相談を強くお勧めします。

中小企業でも中退共に加入できますか?また、就業規則は必要ですか?

中退共(中小企業退職金共済)は、業種ごとに定められた従業員数や資本金の要件を満たす中小企業であれば加入できます。掛金の損金算入や国の助成など、中小企業にとって活用しやすい制度です。ただし、中退共はあくまで退職金の支払い手段・財源管理の仕組みであり、就業規則への退職金規程の記載は別途必要です。加入と同時に就業規則の整備も進めるようにしてください。

監修・運営:INTERMIND株式会社

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