「退職金制度は必ず設けなければいけないのか」「一度導入したら変更できないのか」――こうした疑問を抱える中小企業の経営者・人事担当者は少なくありません。退職金制度は、法律上の位置づけ、財源の確保方法、税務処理など多岐にわたる知識が必要であり、誤った理解のまま運用すると思わぬ法的リスクや経営上の損失につながることがあります。
本記事では、退職金制度の法的な基本から、具体的な設計方法、財源管理、変更・廃止時の注意点まで、中小企業の実務に即した形で解説します。制度の新規導入を検討している方はもちろん、既存制度の見直しを考えている方にも参考にしていただける内容です。
退職金制度は法律上の義務か――基本的な位置づけを正確に理解する
まず最初に確認しておきたいのが、退職金制度の法的義務の有無です。結論からいえば、退職金制度の導入は法律上の義務ではありません。労働基準法には退職金の支払いを強制する規定は存在せず、制度を設けるかどうかは企業の任意です。
ただし、ここに大きな落とし穴があります。一度でも就業規則や労働契約書に「退職金を支払う」旨を記載した場合、その内容は労働契約の内容として法的拘束力を持ちます(労働契約法第7条)。つまり、制度を設けた瞬間から支払い義務が生じるのです。
さらに注意が必要なのが「労働慣行」の問題です。就業規則への明記がなくても、長年にわたって退職金を支払い続けてきた実績がある場合、それが「労働慣行」として法的義務と認められるケースがあります。「なんとなく支払ってきた」という状況が積み重なると、後から廃止しようとしても従業員から異議申し立てを受けるリスクがあります。
また、労働基準法第89条によれば、退職金に関する事項を就業規則に定める場合には、それを就業規則の相対的必要記載事項として記載しなければなりません。常時10人以上の労働者を使用する事業場では就業規則の作成・届出が義務づけられているため、退職金制度を設ける際は必ず就業規則への記載と労働基準監督署への届出を行う必要があります。
退職金の支払い時期についても確認しておきましょう。労働基準法第23条では、労働者から請求があった場合、退職後7日以内に退職金を支払わなければならないと定めています。支払いが遅延した場合は法令違反となるため、資金繰りの観点からも事前の積立が不可欠です。
退職金制度の設計方法――支給基準・算定方式の具体的な決め方
退職金制度を設計する際に最初に検討すべきなのが、支給基準と算定方式です。どのような条件で、どのような計算によって支給額が決まるかを明確に規程化することが、将来のトラブル防止につながります。
退職事由による支給率の設定
退職金の支給額は、退職に至った理由(退職事由)によって異なる支給率を設けるのが一般的です。主な退職事由と支給率の考え方は以下のとおりです。
- 定年退職:最も高い支給率(通常100%)
- 会社都合退職(解雇・事業縮小など):定年退職と同等またはそれ以上の支給率を設けることが望ましい
- 自己都合退職:定年退職より低い支給率(例:勤続10年未満は50〜60%、10年以上は70〜80%など)
- 懲戒解雇:「支給しない」または「大幅減額」とする旨を規程に明記
特に懲戒解雇の場合の取り扱いは、就業規則や退職金規程に明確な文言で記載しておくことが重要です。「支給しない場合がある」という曖昧な表現では、実際のトラブル時に解釈の余地が生まれ、法的紛争に発展するリスクがあります。
算定方式の選択
退職金の計算方式は大きく分けて以下のような種類があります。
- テーブル制(基本給連動型):退職時の基本給に勤続年数・退職事由ごとの係数を掛けて算出する。シンプルでわかりやすいが、昇給に連動して退職金総額も膨らむリスクがある
- 別テーブル制(退職金専用テーブル型):退職金専用の計算表を設け、基本給とは切り離して算定する。賃金改定の影響を受けにくい安定した方式
- ポイント制:勤続年数・役職・人事評価などに応じてポイントを積み上げ、退職時のポイント数に単価を掛けて算定する。能力・貢献度を反映しやすく、人事評価と連動させやすい
中小企業では導入・運用のシンプルさからテーブル制が多く採用されていますが、昇給に連動して将来の退職金総額が増加する点に注意が必要です。将来のコスト予測をしやすいという観点では、別テーブル制やポイント制が優れています。
勤続年数の算定ルールも明確に
勤続年数の算定において、試用期間を通算するかどうか、育児休業・介護休業の期間をどう扱うかについても規程に明記しておく必要があります。曖昧なままにしておくと、退職時に従業員との認識のずれが生じることがあります。
財源確保の方法――中退共・確定拠出年金を活用した外部積立
退職金制度を設けた場合、最大の経営課題となるのが財源の確保です。退職金は一時的に大きな支出となるため、計画的な積立が不可欠です。中小企業が活用できる主な外部積立制度を紹介します。
中小企業退職金共済(中退共)
中退共は、国が運営する中小企業向けの退職金共済制度です。企業が毎月掛金を納付し、従業員が退職する際に中退共から直接退職金が支払われる仕組みです。主なメリットは以下のとおりです。
- 掛金は全額損金算入(法人の場合)または全額必要経費(個人事業の場合)となり、節税効果がある
- 新規加入時や掛金増額時に国・都道府県・市区町村からの助成を受けられる場合がある
- 社外に積み立てるため、企業が倒産した場合でも従業員の退職金が保全される
- 運用・管理コストが比較的低く、中小企業でも導入しやすい
加入要件は業種ごとに資本金額と従業員数の基準が設けられています。例えば製造業であれば資本金3億円以下または従業員300人以下が目安です(業種によって異なります)。
確定拠出年金(DC)
確定拠出年金(DC)は、企業が掛金を拠出し、従業員が自ら運用する年金制度です。運用成果によって将来の受取額が変動します。
- 企業型DC:企業が拠出する掛金が損金算入可能。従業員自身が運用するため、企業の運用リスクを軽減できる
- 簡易型DC・SIMPLE型:従業員100人以下の中小企業向けの簡易な企業型DC。手続きが簡略化されており、導入しやすい
2024年の法改正によりiDeCoとの併用ルールが緩和されており、以前よりも柔軟な活用が可能になっています。導入にあたっては専門家(社会保険労務士・ファイナンシャルプランナーなど)への相談を推奨します。
特定退職金共済
商工会議所や商工会が運営する特定退職金共済も中小企業が活用できる外部積立制度です。中退共と同様に掛金の損金算入が可能で、地域の中小企業を中心に利用されています。
いずれの制度においても、社内引当金だけで退職金の原資を賄おうとすることはリスクが大きいといえます。複数の退職が重なった時期に一時的な資金不足が生じる恐れがあるため、外部積立を優先的に活用することを検討してください。また、年に1度は将来の退職給付債務(将来支払う退職金の現在価値の試算)を確認する習慣をつけることが健全な財務管理につながります。
退職金の税務上の取り扱い――従業員退職金と役員退職金の違い
退職金には法人税・所得税の双方において、通常の給与・賞与とは異なる優遇的な税制が設けられています。制度設計の前に基本的な税務上の取り扱いを把握しておきましょう。
従業員の退職金に関する税制
従業員が受け取る退職金は「退職所得」として所得税・住民税が課税されますが、通常の給与所得に比べて大幅に優遇されています。
退職所得の計算式は以下のとおりです。
- 退職所得 =(退職金の収入金額 ー 退職所得控除額)× 1/2
退職所得控除額(勤続年数に応じた控除)は次のとおりです。
- 勤続年数20年以下:40万円 × 勤続年数(最低80万円)
- 勤続年数20年超:800万円 + 70万円 ×(勤続年数 ー 20年)
例えば勤続30年で退職金2,000万円を受け取る場合、退職所得控除額は800万円+70万円×10年=1,500万円となり、課税対象となる退職所得は(2,000万円ー1,500万円)×1/2=250万円に抑えられます。これは通常の給与所得に比べて非常に有利な課税です。
企業側から見ると、退職金の支払いは損金算入できるため、法人税の課税所得を減らす効果があります。
役員退職金の税務上の留意点
役員退職金は従業員退職金と同様に損金算入できますが、「不相当に高額な部分」については損金算入が認められません(法人税法第34条)。
役員退職金の適正額を判断する際に実務上よく用いられるのが功績倍率方式です。計算式は以下のとおりです。
- 役員退職金の適正額 = 最終月額報酬 × 勤続年数 × 功績倍率
功績倍率は役職によって異なりますが、代表取締役の場合は一般的に2.0〜3.0程度が目安とされています。ただし、税務調査で問題になるケースもあるため、あらかじめ税理士に相談しながら算定することが重要です。
既存制度の変更・廃止時の法的リスクと手続き
退職金制度を一度設けた後に変更・廃止しようとする場合、大きな法的リスクが伴います。「就業規則を書き換えれば自由に変えられる」という誤解は、深刻な労使トラブルの原因となります。
労働契約法第10条では、就業規則の不利益変更(従業員に不利な内容への変更)は原則として従業員の個別同意が必要であり、同意が得られない場合でも「変更の合理性」と「周知」の両要件を満たさなければ効力が生じないと定めています。
退職金制度の廃止や大幅な減額は、従業員の労働条件に直接影響する重大な不利益変更に該当します。裁判例においても、退職金の不利益変更には非常に高い合理性が求められると判断されており、企業側が一方的に廃止・減額することは事実上困難です。
変更・廃止が必要な場合の手続きの流れは以下を参考にしてください。
- ①変更の必要性・内容の検討:財務状況や経営環境の変化を客観的に示せる資料を準備する
- ②労働者代表(過半数組合または過半数代表者)への説明・意見聴取:一方的な通告ではなく、丁寧な説明と協議の場を設ける
- ③就業規則の変更・労働基準監督署への届出:意見書を添付して届出を行う
- ④従業員全員への周知:変更内容と施行日を明確に通知する
また、すでに積み上がった退職金の権利(既得権)は原則として変更後も保護されます。例えば制度廃止前の勤続期間に対応する退職金相当額は、廃止後も支払い義務が残ることが多いため、変更・廃止の前には必ず社会保険労務士や弁護士に相談することを強くお勧めします。
中小企業が退職金制度を設計する際の実践ポイント
ここまでの内容を踏まえ、中小企業が退職金制度を新たに設計・見直す際の実践的なポイントをまとめます。
- まず「設けるかどうか」の判断を明確にする:同業他社・競合他社の状況、採用競争力への影響、財務上の余力を総合的に検討したうえで判断する。「なんとなく慣習で支払ってきた」という状態は最もリスクが高い
- 規程を先に作り、明文化してから運用を開始する:支給基準・算定方式・退職事由別の取り扱いを就業規則または退職金規程として明文化し、従業員に周知する
- 外部積立制度を最大限活用する:中退共・企業型DCなど、税制メリットのある外部積立制度を活用し、社内に退職金原資を抱えるリスクを軽減する
- 年1回、将来の退職給付債務を試算する:現在の従業員構成をもとに将来支払う退職金総額の見通しを把握し、積立の過不足を確認する
- 変更・廃止は専門家と相談しながら慎重に進める:不利益変更は手続きを誤ると法的紛争に発展するリスクがある。社会保険労務士・弁護士への相談を必ず行う
- 役員退職金は功績倍率方式を参考に、税理士と連携して設計する:不相当に高額な部分は損金不算入となるため、税務上の適正額を事前に確認する
なお、従業員の定着率向上や職場環境の整備には、退職金制度と並行してメンタルヘルス対策への取り組みも重要です。従業員が安心して長期的に働ける環境づくりには、メンタルカウンセリング(EAP)の導入も有効な選択肢の一つです。
まとめ
退職金制度は、法律上の義務ではないものの、一度設けた以上は法的拘束力を持つ重要な労働条件です。「制度の有無」「算定方式の選択」「財源の確保方法」「税務処理」「変更・廃止の手続き」のそれぞれに、経営上・法律上の留意点が存在します。
中小企業においては、まず自社の財務状況と採用競争力の観点から制度の必要性を検討し、導入する場合は中退共や企業型DCなどの外部積立制度を積極的に活用することが望ましいといえます。また、制度を明文化したうえで定期的に見直しを行い、必要な変更がある場合は適切な法的手続きを踏むことが重要です。
退職金制度の設計・運用は、社会保険労務士・税理士・弁護士といった専門家と連携しながら進めることで、法的リスクを最小化し、従業員の信頼を得られる制度づくりが可能になります。従業員が長期的に安心して働ける職場環境の整備は、採用・定着の両面で企業の競争力向上につながります。健康経営の観点から産業医サービスの活用も含め、総合的な人事・労務管理に取り組むことをお勧めします。
よくある質問(FAQ)
退職金制度を設けていない場合でも、支払い義務が生じることはありますか?
退職金制度を規程として設けていなくても、長年にわたって慣行的に退職金を支払ってきた実績がある場合、「労働慣行」として法的な支払い義務が認められることがあります。また、労働契約書や雇用通知書に退職金に関する記載がある場合も同様です。「制度がないから支払わなくてよい」と判断する前に、過去の支払い実績や書面の記載内容を確認することが重要です。
中退共に加入した後、途中で解約・脱退することはできますか?
中退共は原則として途中解約を前提とした制度ではなく、解約返戻金の制度もありません。ただし、中小企業の規模を超えた場合(中小企業でなくなった場合)などには脱退手続きが必要になります。また、従業員が退職せずに会社が倒産した場合は、中退共が直接従業員に退職金を支払う仕組みになっています。加入前に制度の特性を十分理解したうえで導入を検討してください。
退職金規程を新たに作成する際、どのような専門家に相談すればよいですか?
退職金規程の作成・就業規則への反映については社会保険労務士、税務上の損金算入・役員退職金の適正額については税理士、制度変更・廃止時の法的手続きについては弁護士がそれぞれの専門領域となります。制度の新規設計段階では社会保険労務士と税理士に相談するケースが多く、制度変更・廃止を伴う場合は弁護士も交えた相談が望ましいといえます。







