「うちは残業代をきちんと払っているから大丈夫」——そう考えている経営者や人事担当者は、実は大きなリスクを抱えているかもしれません。労働時間の適正把握は、割増賃金の計算とは別に、使用者(会社)に課せられた独立した法的義務です。この義務を怠ると、行政指導や是正勧告の対象となるだけでなく、従業員の健康被害や労使トラブルに発展する恐れもあります。
特に中小企業においては、「タイムカードはあるが集計が煩雑」「テレワーク社員の実態が見えない」「管理職の時間管理をどこまですべきか分からない」といった悩みを抱えるケースが少なくありません。本記事では、法的根拠を整理しながら、現場で実践できる労働時間管理の方法を具体的に解説します。
労働時間の適正把握義務とは何か:法的根拠を整理する
労働時間の把握が義務であることは、複数の法律・ガイドラインによって裏付けられています。まずは主要な根拠を確認しておきましょう。
労働基準法による基本的な規律
労働基準法第32条は、法定労働時間を1日8時間・週40時間と定めています。第37条では、これを超えた時間外労働や休日・深夜労働に対して割増賃金を支払うことを義務付けています。割増賃金を正確に計算するためには、当然ながら実際の労働時間を正確に記録・把握していなければなりません。
また、第108条および第109条に基づく賃金台帳の作成と保存義務も重要です。賃金台帳には労働時間数の記載が求められており、保存期間は従来3年間でしたが、2020年の法改正により5年保存が努力義務化されました。さらに2025年4月からは5年保存が正式に義務化される予定であるため、今から記録体制を整えておく必要があります。
厚生労働省ガイドラインが示す「客観的把握」の原則
2017年に厚生労働省が策定した「労働時間の適正な把握のためのガイドライン」は、使用者が労働者の労働時間を適切に把握する責務を明確に打ち出しています。このガイドラインが特に重要なのは、把握方法に関して明確な優先順位を示している点です。
原則として、タイムカード・ICカード・パソコンのログイン・ログオフ記録といった客観的な方法による記録が求められます。本人の自己申告に頼る方法は「やむを得ない場合」の例外扱いとされており、利用する場合には後述するような一定の条件を満たす必要があります。
労働安全衛生法による健康管理目的の把握義務
2019年に施行された労働安全衛生法第66条の8の3では、管理監督者や裁量労働制の適用者も含めたすべての労働者について、健康管理を目的とした労働時間把握が義務付けられました。月80時間を超える時間外・休日労働が疑われる場合には、医師による面接指導を実施しなければなりません。
これは「管理職には残業規制が適用されないから時間管理も不要」という考え方が誤りであることを示す重要な規定です。労働基準法上の時間外規制の適用除外と、安全衛生法上の健康管理義務は別の話です。
中小企業が陥りやすい3つの誤解
制度の理解不足から、多くの中小企業が実務上の問題を抱えています。代表的な誤解を整理しておきましょう。
誤解①「残業代を払っていれば時間管理は不要」
割増賃金の支払いと労働時間の適正把握義務は、法律上まったく別の問題です。仮に残業代を適切に支払っていたとしても、労働時間の記録・管理が不十分であれば、それ自体が行政指導・是正勧告の対象になります。また、正確な記録がなければ割増賃金の計算が正しいかどうかの検証もできないため、後から未払い残業代を請求されるリスクも高まります。
誤解②「管理職は時間管理の対象外」
労働基準法上、管理監督者(経営者と一体的な立場で業務を行う者)には時間外・休日労働に関する規定が適用されません。しかし「管理監督者」と認められるためには、経営方針の決定に参画していること、出退勤の自由があること、職責に見合った処遇を受けていることという実質的な要件を満たす必要があります。これらを満たさない、いわゆる「名ばかり管理職」は一般の労働者と同様に扱わなければなりません。
さらに、前述のとおり労働安全衛生法上は管理監督者であっても健康管理目的の労働時間把握が義務付けられています。
誤解③「テレワーク社員には事業場外みなし制が使える」
事業場外みなし労働時間制(労働時間の算定が困難な場合に、所定労働時間または協定で定めた時間を労働したとみなす制度)は、テレワーク社員に対して自動的に適用できるものではありません。厚生労働省の2021年版ガイドラインでは、適用条件として「情報通信機器が使用者の指示で常時通信可能な状態に置かれていないこと」「随時使用者の具体的な指示に基づいて業務を行っていないこと」の両方を満たす必要があると示されています。多くのテレワーク環境ではこれらの条件が満たされておらず、みなし制の適用は困難です。
状況別・労働時間の把握方法と選び方
一口に労働時間の把握といっても、業種や働き方によって適切な方法は異なります。ここでは代表的なケースごとに実務的な対応策を示します。
オフィス勤務者:客観的記録の基本を押さえる
オフィスで働く一般社員については、タイムカードや入退場のICカード記録が最もシンプルで確実な方法です。重要なのは「始業時刻」と「終業時刻」の両方を記録することです。在社時間の記録だけでは、休憩時間の取得状況などが不明確になり、実際の労働時間の算定が難しくなります。
クラウド型の勤怠管理システムは、月数百円/人程度から導入できるサービスも増えており、集計・分析作業を大幅に省力化できます。紙の出勤簿で集計に時間を取られているケースでは、早期の移行を検討する価値があります。
テレワーク社員:複数の記録を組み合わせる
テレワーク社員の労働時間把握には、単一の方法だけでは限界がある場合が多いため、複数の記録を組み合わせるアプローチが現実的です。具体的には、パソコンのログイン・ログオフ記録、チャットツールやWeb会議システムのアクセス記録、本人の自己申告を組み合わせ、申告内容と客観的記録の整合性を定期的に確認する運用が推奨されます。
自己申告制を補助的に用いる場合には、ガイドラインの要件(制度の説明、実態との乖離確認、過少申告防止のための環境整備)を満たした運用が求められます。
営業職・直行直帰:みなし制の適用可否を慎重に判断する
外出先から直接帰宅するような営業職については、事業場外みなし労働時間制の活用が検討されることがあります。ただし、スマートフォンや業務用アプリで随時連絡が取れる状態にある場合は、「労働時間の算定が困難」とは言えないため、適用条件を満たさない可能性があります。
みなし制を適用しない場合は、GPS記録・業務報告書・モバイル端末のログといった客観的な記録を積み上げながら、自己申告と照合する仕組みを構築することが現実的な対応です。
働き方改革との接続:上限規制と36協定の実効的な管理
2019年に施行された働き方改革関連法により、時間外労働の上限規制が全企業に適用されています(中小企業への猶予期間は2020年3月末で終了)。原則として時間外労働は月45時間・年360時間が上限であり、特別条項を設けた場合でも年720時間、単月では休日労働を含めて100時間未満、複数月(2〜6ヶ月の平均)では80時間以内という絶対上限が定められています。これらの違反には6ヶ月以下の懲役または30万円以下の罰金という刑事罰が設けられています。
上限規制を遵守するためには、36協定(時間外・休日労働に関する労使協定)の内容と実際の残業実績を毎月照合する仕組みが不可欠です。以下のアラートラインを設定し、月次で確認するフローを標準化することが重要です。
- 月45時間超:36協定の原則上限。特別条項なしに超えることはできない。
- 月80時間超:労働安全衛生法上、医師による面接指導が義務化される水準(過労死ラインとも呼ばれる)。
- 月100時間超:絶対上限。いかなる協定があっても超えてはならない。
実績が協定の上限に近づいている部署があれば、業務量の再配分や要員の見直しを早期に検討する必要があります。上限規制への対応は単なる法令遵守の問題ではなく、従業員の健康と企業の持続性に直結するテーマとして経営層が主体的に関与することが求められます。
今日から着手できる実践ポイント
これまでの解説を踏まえ、中小企業が優先的に取り組むべき実践ポイントを整理します。制度の整備には段階があって構いませんが、法的リスクの高い順に着手することが合理的です。
ステップ1:記録方法の客観性を確保する
まず現状の把握方法を見直し、自己申告のみに頼っている場合は客観的な記録との照合体制を整えましょう。タイムカードやクラウド勤怠システムは比較的低コストで導入できます。重要なのは始業・終業の両方を記録すること、そして電子データの場合は改ざん防止措置を講じることです。
ステップ2:管理監督者の取扱いを整理する
現在「管理職」として扱っている従業員について、労働基準法上の管理監督者の要件を実際に満たしているかを確認します。要件を満たさない場合は、一般社員と同様の労働時間管理を適用する必要があります。また、要件を満たす管理監督者についても、安全衛生法上の健康管理義務が生じることを忘れないでください。
ステップ3:月次の確認・承認フローを設ける
勤怠データを集計して終わりにするのではなく、管理者が毎月、部下の残業時間を確認・承認する運用フローを標準化します。月45時間・80時間・100時間のラインで警告が出るよう設定し、80時間を超えた従業員については産業医や保健師への面接指導につなげる体制を整えましょう。
ステップ4:従業員・管理職への周知と理解醸成
仕組みを整えても、現場の理解がなければ機能しません。特に管理職に対しては、なぜ労働時間管理が重要か(従業員の健康保護・法的リスクの回避・生産性向上)を丁寧に説明し、主体的な関与を促すことが大切です。従業員に対しても、過少申告がなぜ問題なのかを説明し、申告しやすい職場環境を整えることが求められます。
ステップ5:記録の保存体制を整備する
現行では3年保存が義務ですが、2025年4月以降は5年保存が義務となります。今から5年分の保存体制を想定した仕組みを構築しておくことで、移行時の混乱を防げます。電子データでの保存は認められていますが、改ざんができない形での管理が前提です。
まとめ
労働時間の適正把握は、割増賃金の計算とは独立した使用者の義務です。2017年のガイドライン、2019年の労働安全衛生法改正、働き方改革関連法の施行と、法的な要請は年々強化されています。中小企業であっても例外はなく、規模の小ささを理由に対応を先送りすることはできません。
一方で、完璧なシステムを一気に導入しなければならないわけでもありません。まず現状の把握方法に客観性を持たせること、管理監督者の取扱いを整理すること、月次の確認フローを設けること——この3点から着手するだけでも、リスクは大幅に低減できます。
労働時間を正確に把握することは、法令遵守のためだけでなく、従業員の健康を守り、適切な業務量配分を実現するための基盤でもあります。「見えない残業」をなくすことが、長期的な組織の健全性と生産性向上につながると考え、経営課題として取り組んでいただければ幸いです。
よくある質問
Q1: 残業代をきちんと支払っていれば、労働時間管理は不要なのでは?
割増賃金の支払いと労働時間の適正把握義務は法律上まったく別の問題です。残業代を支払っていても、労働時間の記録・管理が不十分であれば、それ自体が行政指導や是正勧告の対象になります。また、正確な記録がなければ割増賃金の計算が正しいかどうかの検証ができず、後から未払い残業代を請求されるリスクも高まります。
Q2: 管理職には残業規制が適用されないので、時間管理をしなくても良いのでは?
労働基準法上の時間外規制と労働安全衛生法上の健康管理義務は別の問題です。管理職であっても健康管理を目的とした労働時間把握が義務付けられており、月80時間を超える時間外・休日労働が疑われる場合には医師による面接指導を実施しなければなりません。また「名ばかり管理職」は一般労働者と同様に扱う必要があります。
Q3: テレワーク社員であれば、事業場外みなし労働時間制を使って時間管理を簡略化できるのでは?
事業場外みなし労働時間制はテレワーク社員に自動適用されるものではありません。厚生労働省ガイドラインでは、使用者の指示で通信機器が常時通信可能な状態に置かれていないこと、随時の具体的指示に基づいて業務を行っていないことの両方を満たす必要があり、多くのテレワーク勤務はこの条件を満たしません。
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