「産業医との面談で、従業員が何を話したのか気になる」「休職中の社員の病名を知りたいが、産業医に聞いてもいいのか」――こうした悩みを抱える人事担当者は少なくありません。
産業医と人事担当者の情報共有は、従業員の健康管理と職場の安全衛生を守るうえで欠かせない連携です。しかし、何をどこまで共有してよいかの判断基準が曖昧なまま運用されているケースが多く、「知りすぎたことによるトラブル」と「知らなさすぎたことによる対応遅れ」の両方が現場で起きています。
本記事では、労働安全衛生法や個人情報保護法などの法的根拠をもとに、産業医と人事担当者の情報共有の範囲と正しい運用方法をわかりやすく解説します。中小企業の経営者・人事担当者の方が、今日から実務に活かせる内容を目指しています。
情報共有の「方向」によってルールが異なる
産業医と人事担当者の情報共有を考えるうえでまず理解しておきたいのは、情報の流れには「人事から産業医へ」と「産業医から人事へ」という2つの方向があるという点です。それぞれでルールが異なるため、一緒に論じてしまうと混乱の原因になります。
人事から産業医へ:法律上の「提供義務」がある
労働安全衛生法第104条(令和2年改正、令和3年4月施行)は、事業者が産業医に対して必要な情報を提供する義務を明文化しています。つまり、「何を伝えてよいか」ではなく「何を伝えなければならないか」という観点で考える必要があります。
具体的に提供が求められる情報としては、以下のようなものが挙げられます。
- 健康診断やストレスチェックの結果
- 月80時間を超える時間外労働者の情報
- 欠勤・遅刻・早退の状況
- 業務内容・職場環境・人間関係トラブルの概要
- 休職・復職に関わる経緯や状況
これらの情報は、産業医が適切な健康管理の判断を行うために不可欠なものです。「個人情報だから渡さない」という対応は、法の趣旨に反する可能性があることを認識しておいてください。なお、これらの情報提供に際して本人の同意は必須ではありませんが、就業規則や健康管理規程に情報提供の方針をあらかじめ明記し、従業員に周知しておくことが望ましいとされています。
産業医から人事へ:原則として本人同意が前提
一方、産業医が人事に情報を伝える場合は、基本的に本人の同意を得ることが前提です。産業医には医師としての守秘義務(刑法第134条)があり、面談で知り得た情報を無断で第三者に伝えることは法的に許容されていません。
ただし、産業医が人事に伝えることが認められている情報も存在します。それは「就業上の措置が必要かどうか」の判断結果とその内容です。具体的には以下のような情報です。
- 就業制限の内容(例:残業禁止、出張禁止、深夜業禁止など)
- 職場復帰の可否と復帰に向けた条件
- 業務負荷の軽減が必要かどうかの意見
反対に、産業医が人事に伝えるべきではない情報の代表例は以下のとおりです。
- 具体的な病名・診断名
- 服薬内容や治療の詳細
- 本人が面談中に語った私的な事情
この区別が実務上の判断基準の核心です。人事が「病名を教えてほしい」と産業医に求めるケースがよく見られますが、それは必ずしも必要な情報ではありません。
「就業上の措置に必要な範囲」が判断基準のコアになる
法律や指針が繰り返し強調しているのは、人事が知るべき健康情報は「就業上の措置を決めるために最低限必要な範囲」に限定されるという考え方です。
厚生労働省が2019年3月に策定した「労働者の心身の状態に関する情報の適正な取扱いのために事業者が講ずべき措置に関する指針」(以下、「健康情報取扱指針」)でも、人事部門への情報提供は就業上の措置に必要な範囲に限定することが原則として定められています。
たとえば、うつ病で休職している従業員の職場復帰を検討する場面を考えてみましょう。この場合、人事担当者が知るべき情報は「うつ病である」という診断名ではなく、「残業は月20時間以内に抑える必要がある」「フレックスタイムの活用が望ましい」といった職場での対応策に直結する情報です。
病名を知っていると、無意識のうちに偏見や先入観が生まれ、評価や処遇に影響してしまうリスクがあります。それが後に不当な扱いとして労使トラブルに発展するケースも実際に起きています。「何ができて、何ができないか」に焦点を絞ることが、本人の権利を守りながら適切な職場対応を行う出発点になります。
メンタルヘルス不調者の職場復帰支援に取り組む際は、産業医サービスを活用して、産業医・人事・上司の役割を整理した連携体制を構築することが重要です。
上司への情報共有は特に慎重に
人事担当者が悩みやすいもう一つの場面が、上司への情報共有です。「部下の状態を把握させたい」「職場配慮のために教えておきたい」という意図は理解できますが、上司への情報提供は人事担当者以上に慎重であるべきです。
健康情報取扱指針の考え方では、上司には原則として病名等の詳細を共有しないこととされています。上司に伝えてよいのは、就業制限の内容(例:「しばらくの間、残業はさせないでください」「会議の参加は任意にしてください」など)のみです。
例外的に本人が同意した場合は、病名や経緯を上司と共有することも可能ですが、その場合も書面等で同意の範囲を明確にしておくことが不可欠です。「口頭で同意を得た」という状況は、後から「そんなことは言っていない」と争いになるリスクを含んでいます。
また、小規模な企業では「産業医が知人や取引先の関係者」というケースもあります。このような状況では、従業員が情報漏えいを恐れて産業医との面談を拒否する、あるいは正直な情報を開示しないという問題が生じやすくなります。こうした体制上のリスクも含めて、外部の専門的なメンタルカウンセリング(EAP)との併用を検討する価値があります。
本人同意の正しい取り方と注意点
産業医から人事への情報提供を適切に行うためには、本人の同意を正しい方法で取得することが重要です。しかし実務上、この「同意の取り方」が曖昧になっているケースが非常に多く見受けられます。
同意取得のタイミングと方法
理想的なのは、産業医との面談を行う前に、以下の点を書面で説明し、署名・押印等により同意を得ることです。
- 面談の目的と内容
- 面談結果のうち、会社(人事)に報告される可能性がある情報の種類
- 誰に、どの範囲で共有されるか
- 同意しなかった場合にどうなるか
「産業医に話したことは全部会社に筒抜けになる」と従業員に誤解されてしまうと、面談での率直なコミュニケーションが失われます。逆に、「産業医との話は絶対に秘密」と思い込ませてしまうと、必要な就業上の措置が講じられないというリスクが生まれます。
したがって、「就業上の配慮を決めるために必要な範囲は人事と共有する場合がある」ということを、丁寧かつ具体的に事前説明することが重要です。
同意の撤回や変更への対応
一度同意を得た場合でも、従業員が後から同意を撤回したいと申し出た場合の対応方針も規程に定めておくことが望まれます。同意の管理が属人的になると、担当者交代時に引き継ぎが失敗するリスクも生じます。
社内規程の整備が法的リスクを下げる
産業医との情報共有に関する問題の多くは、社内ルールが整備されていないことに起因しています。個別の判断に頼った運用は担当者によってバラつきが生じ、それ自体が労使トラブルの火種になります。
健康情報取扱指針は、事業者に対して健康情報の取扱いに関する社内規程を整備することを求めています。就業規則とは別に、独立した「健康情報取扱規程」を作成することが理想的です。
規程に含めるべき主な事項は以下のとおりです。
- 取得する情報の種類:健康診断結果、ストレスチェック結果、産業医面談の記録など
- 情報にアクセスできる役職・担当者の限定:閲覧権限を最小化する
- 情報の保管方法:紙媒体・電子データそれぞれの管理方法(施錠、アクセス制限など)
- 情報の保管期間と廃棄方法:不要になった情報を適切に廃棄するルール
- 目的外利用の禁止:健康情報を人事評価等に用いることの明示的な禁止
- 違反した場合の対応:規程違反に対する懲戒等の対応方針
規程を整備したうえで、その内容を従業員に周知することが、個人情報保護法における「利用目的の明示」としても機能します。また、万が一トラブルが生じた際に、会社が適切な体制を整えていたという証拠にもなります。
実践ポイント:今日から始められる5つの対応
ここまでの内容を踏まえて、中小企業の経営者・人事担当者がすぐに着手できる実践ポイントをまとめます。
-
情報の流れを「方向別」に整理する
「人事→産業医」と「産業医→人事」でルールが異なることを社内で共有し、混同しないようにする。 -
「就業上の措置に必要か」を常に問い直す
健康情報を求める際は「この情報は職場での対応策を決めるために本当に必要か」を確認する習慣をつける。病名より「できること・できないこと」の把握を優先する。 -
本人同意の書面化を徹底する
産業医面談の前に「情報共有の範囲と方法」を書面で説明し、署名による同意を取得する手続きを標準化する。 -
上司への情報提供ルールを明文化する
上司には「就業制限の内容のみ」を原則とし、それ以上の情報は本人同意がある場合のみ伝えることを社内ルールとして明確にする。 -
健康情報取扱規程を整備・更新する
既存の就業規則を補完する形で、健康情報に特化した規程を整備する。すでに規程がある場合は、令和2年の労働安全衛生法改正や現在の実務に照らして内容を見直す。
まとめ
産業医と人事担当者の情報共有は、「何でも話していい」でも「何も話さない方が安全」でもありません。法律と指針が定める枠組みのなかで、適切な情報を適切な範囲で共有することが、従業員の健康管理と職場の安全衛生の両立につながります。
重要なポイントを改めて整理します。事業者には産業医への情報提供義務がある一方、産業医から人事への情報提供は本人同意を原則とし、「就業上の措置に必要な範囲」に限定することが基本です。病名などの詳細な医療情報は、特段の必要がない限り人事担当者が把握する必要はありません。これらのルールを社内規程として明文化し、担当者が変わっても同じ水準の運用ができる体制を整えることが、中小企業における健康情報管理の要となります。
産業医との連携に課題を感じている場合は、外部の専門機関のサポートを活用することも一つの選択肢です。情報共有のルール整備から、メンタルヘルス不調者への対応まで、体制全体を見直すきっかけにしていただければ幸いです。
よくある質問(FAQ)
産業医に従業員の残業時間を伝えることは個人情報の問題になりますか?
労働安全衛生法第104条により、月80時間を超える時間外労働が疑われる労働者の情報は事業者が産業医に提供する義務があります。残業時間の情報は健康管理目的で産業医に提供することが法律上認められており、就業規則や健康管理規程に情報提供の方針を明記して従業員に周知しておくことで、個人情報保護法上の問題も適切に対処できます。
産業医が「この人はうつ病です」と人事に伝えることは許されますか?
原則として、産業医が本人の同意なく具体的な病名を人事担当者に伝えることは適切ではありません。産業医が人事に伝えるべき情報は「就業上の措置が必要かどうか」とその内容(例:残業制限、配置転換の配慮など)に限定されます。病名の共有が必要な場合は、必ず事前に本人から書面で同意を取得したうえで行うことが求められます。
健康情報取扱規程は何人以上の企業から必要ですか?
規程の整備義務について従業員数による明確な閾値は設けられていませんが、厚生労働省の健康情報取扱指針はすべての事業者を対象としています。産業医の選任義務がある50人以上の事業場はもちろん、それ以下の規模の企業でも健康情報を取り扱う以上、規程の整備は法的リスクを軽減するうえで重要です。まずは就業規則に健康情報の取扱いに関する基本方針を加えることから始めるとよいでしょう。
産業医の選任・変更をご検討の企業様には、INTERMINDの産業医サービスをご活用ください。精神科専門医が在籍し、日常の健康管理から有事の専門介入まで一貫して対応します。









