「毎年健康診断の案内を出しているのに、なかなか受診率が上がらない」「未受診者への督促がいつも人事担当者一人の仕事になってしまっている」——中小企業の現場では、こうした声が絶えません。
健康診断の実施は、労働安全衛生法第66条によって事業者に課せられた法的義務です。しかし「案内を送ったのに受診してもらえない」「受診率が上がらないけれど何が問題なのかわからない」と悩む経営者・人事担当者は非常に多いのが実情です。
受診率が低い状態が続くと、従業員の健康リスクが高まるだけでなく、労働基準監督署による是正指導の対象になる可能性もあります。本記事では、健康診断受診率が低くなる根本的な理由を整理したうえで、中小企業でも今日から取り組める具体的な改善策を解説します。
なぜ健康診断受診率は上がらないのか——よくある理由と背景
受診率向上に取り組む前に、まず「なぜ受診されないのか」という原因を正確に把握することが重要です。企業によって状況は異なりますが、よく見られる理由には以下のようなものがあります。
- 業務の忙しさを理由に後回しにする:特に現場職や営業職は「今日は忙しいから来月でいい」という先送りが繰り返されやすい傾向があります。
- 予約が面倒・医療機関の選択肢が少ない:案内が届いても、自分で予約する手間を感じると行動につながらないことが多いです。
- 受診日が業務扱いか不明確:「受診中の時間は有給を使うのか、業務扱いになるのか」がはっきりしないと、受診をためらう従業員が出てきます。
- 「自分は健康だから大丈夫」という過信:自覚症状がない状態では、健診の必要性を実感しにくい従業員もいます。
- 案内が形式的すぎて伝わっていない:メールを1回送っただけで「対応済み」としているケースは、従業員側には「会社は本気ではない」と受け取られやすいです。
これらの理由の多くは、「仕組み」と「文化」の両面から改善できます。以下のセクションで、具体的な対策を順番に見ていきましょう。
まず知っておくべき法律の基本——誰が対象で、誰の義務か
施策を考える前に、法律上の基本的な枠組みを整理しておくことが欠かせません。特に中小企業では、パートタイマーや派遣社員への対応が曖昧になっているケースが見受けられます。
正社員・フルタイム労働者への義務
労働安全衛生法第66条に基づき、事業者は常時使用する労働者に対して、年1回以上の定期健康診断を実施する義務を負います。この「常時使用する労働者」とは、主に正社員・フルタイム勤務の従業員を指します。新たに雇い入れる際には「雇入れ時健診」も必要です。また、深夜業や有害業務に従事する労働者は年2回以上の実施が求められます。
パートタイム・派遣社員への適用基準
よくある誤解として「パートは健診しなくていい」というものがありますが、これは正確ではありません。週30時間以上(正社員の労働時間の4分の3以上)勤務するパートタイム労働者には、定期健康診断の実施義務があります。週20〜29時間程度の場合でも、一定の条件を満たすケースでは実施が望ましいとされています(努力義務)。
また、派遣社員については派遣元事業者に実施義務があります。自社に派遣スタッフがいる場合は、派遣元から受診済みの確認を取るようにしましょう。
費用負担と受診時間の取り扱い
法定の健康診断費用は事業者が負担するのが原則です。受診時間中の賃金については法令上の明確な規定はないものの、業務として受診させる場合は賃金を支払うことが望ましいとされています。受診日の扱いを就業規則に明記しておくと、従業員の不安が解消され、受診率の向上にもつながります。
受診率を上げる「仕組み」の作り方——運用改善の具体策
健康診断受診率が低い原因の多くは、「仕組みが整っていないこと」にあります。以下の施策を組み合わせることで、受診率の底上げが期待できます。
受診機会を増やす工夫
受診できる医療機関が少なかったり、受診期間が短すぎたりすると、それだけでハードルが上がります。以下の点を見直してみましょう。
- 提携医療機関を複数設定する:勤務先の近く、自宅の近くなど複数の選択肢を提示することで、都合のいい場所・時間を選びやすくなります。
- 土日・早朝・夜間対応の医療機関を案内に含める:特に現場職や営業職は平日昼間に時間が取りにくいため、時間帯の選択肢は重要です。
- 受診期間を2〜3ヶ月と長めに設定する:1ヶ月以内の短い期間設定は、医療機関の予約が取れずに「受診できなかった」という事態を招きやすいです。年末・年度末は医療機関が混み合うため、時期にも注意が必要です。
- 巡回健診(出張型健診)の導入を検討する:健診車を職場に呼ぶ方式は、受診のための外出が不要になるため、受診ハードルを大幅に下げられます。費用面での比較検討が必要ですが、多人数が一度に受診できる点で効率的です。
予約・管理を会社側が担う
「各自でご予約ください」と案内を出すだけでは、忙しい従業員の行動変容は期待しにくいです。会社側がまとめて予約を手配する方式を採用すると、従業員の手間が省けるうえに、未受診者の把握も容易になります。
また、受診者リストをExcelや管理システムで一元管理し、誰がまだ受診していないかを「見える化」することが重要です。案内→中間督促→最終督促の3段階リマインドを仕組みとして組み込むことで、人事担当者の負担を軽減しながら受診を促せます。
管理職を巻き込む
受診率向上を人事担当者だけに任せると、現場への働きかけに限界があります。各部署の管理職が受診状況を把握し、声がけを行う仕組みを作ることが効果的です。部署ごとの受診率を定期的に共有し、管理職の意識を高めることが重要なポイントになります。
受診を「当たり前の文化」にするための環境づくり
仕組みの整備と並行して、職場全体の意識・文化を変えていくアプローチも欠かせません。
受診日の位置づけを明確にする
受診日を特別休暇または業務扱いとして就業規則に明記することで、「有給を使って行くのが嫌だ」という心理的なハードルが下がります。この一点だけで受診率が改善するケースも少なくありません。
経営者・管理職が率先して受診する
トップが受診を重視している姿勢を示すことは、組織の文化形成に大きな影響を与えます。経営者や管理職が率先して受診し、その様子を社内に発信することで、「この会社では健康診断を受けることが当然である」という意識が広がりやすくなります。
受診率をオープンにする
部署・チームごとの受診率を社内で公開することで、健全な競争意識が生まれることがあります。「自分の部署だけ受診率が低い」という状況が可視化されると、管理職が自発的に動くきっかけになります。
インセンティブの活用
受診率目標を達成した部署への表彰やクオカードの配布、あるいは健診受診をポイント化して福利厚生に活用するウェルネスポイント制度の導入も、受診意欲を高める手段として活用されています。また、健康経営優良法人認定(経済産業省が推進する制度)の取得を目標に設定することで、受診率向上を会社全体の経営課題として位置づける企業も増えています。
未受診者への対応——記録を残しながら粘り強く
どれだけ環境を整えても、一定数の未受診者が残るのは現実です。そこで重要なのが、記録に残る形での受診勧奨です。
口頭での案内だけでは、事後的に「会社が何もしなかった」と評価されるリスクがあります。メールや書面での勧奨を複数回行い、その記録を保存しておくことが、事業者としての対応義務を果たした証拠になります。
それでも受診しない従業員に対しては、就業規則に「業務命令として健康診断を受診させることができる」旨を明記しておくことが重要です。労働安全衛生法第66条第5項では、従業員にも受診義務が定められているため、この規定を根拠に業務命令を発令することが法的に認められています。
なお、受診拒否が続く場合や対応に迷った場合は、産業医や社労士に相談して対応方針を決めることをお勧めします。産業医サービスを活用することで、従業員への個別対応や保健指導も含めたトータルサポートが受けられます。
健診後の事後管理も忘れずに——結果が出てからが本当のスタート
「受診させれば終わり」と考えている企業は少なくありませんが、健診結果に基づく事後措置も事業者の義務です(労働安全衛生法第66条の5)。
特に要注意なのが、要精密検査・要治療と判定された従業員への受診勧奨です。健診結果を受け取っただけで放置すると、従業員の健康リスクが高まるだけでなく、事業者としての責任を果たしていないとみなされる可能性があります。
また、長時間労働が続く従業員については、労働安全衛生法第66条の8に基づく医師による面接指導の実施も必要です。健診の受診率向上と合わせて、結果の活用・事後フォローの体制も整えていきましょう。メンタルヘルスに不安を抱える従業員へのフォローには、メンタルカウンセリング(EAP)の活用も選択肢のひとつです。
実践ポイントまとめ——今日から着手できる5つのアクション
- 受診期間を2〜3ヶ月に延長し、提携医療機関の選択肢を増やす:まず受診しやすい環境をつくることが最優先です。
- 受診日を就業規則で業務扱いまたは特別休暇として明記する:「有給を使うのが嫌」という心理的ハードルを取り除きましょう。
- 未受診者リストを作成し、3段階リマインドを仕組み化する:人事担当者が都度追いかける体制から、システム化された流れへと移行させましょう。
- 管理職を受診管理の当事者として巻き込む:部署別の受診率を共有し、現場の管理職が声がけできる体制を構築しましょう。
- 受診勧奨は必ずメール・書面で記録に残す:複数回の記録が、後から事業者の対応義務を証明する根拠になります。
まとめ
健康診断受診率の向上は、「案内を出す」という一点にとどまらず、受診しやすい環境の整備・管理の仕組み化・職場文化の醸成・事後フォローの徹底という複合的な取り組みが必要です。
中小企業では人手や予算の制約があるのは確かですが、受診率が低いまま放置することは、従業員の健康リスクの増大だけでなく、法的なリスクも孕んでいます。まずは取り組みやすい施策から一つずつ着実に実行することが、受診率改善への近道です。
「何から手をつければいいかわからない」「専門的なサポートが欲しい」という場合は、産業医や保健師などの専門職の力を借りることも検討してみてください。専門家の関与によって、受診勧奨から事後フォローまでの体制を一貫して構築することが可能になります。
よくある質問
Q. 健康診断の受診率が低い場合、会社はどのようなリスクを負いますか?
労働安全衛生法第66条に基づく健康診断の実施は事業者の義務であり、未受診者が多い状態が続くと、労働基準監督署による是正指導の対象になる可能性があります。また、従業員が健康上の問題を抱えていたにもかかわらず健診が未実施だった場合、企業の安全配慮義務違反として損害賠償リスクが生じるケースも考えられます。受診率100%を目指す取り組みと、受診勧奨の記録保管を徹底することが重要です。
Q. パートタイム・アルバイト従業員には健康診断を実施する義務がありますか?
週30時間以上(正社員の所定労働時間の4分の3以上)勤務するパートタイム労働者には、正社員と同様に定期健康診断の実施義務があります。週20〜29時間程度の場合でも、一定の条件を満たす場合には努力義務として実施が推奨されています。「パートだから健診は不要」という誤解が法令違反につながるケースがあるため、雇用形態ごとの対象者を正確に把握しておきましょう。
Q. 健康診断の受診を拒否する従業員にはどう対応すればよいですか?
労働安全衛生法第66条第5項では、労働者にも健康診断を受診する義務が定められています。そのため、就業規則に「業務命令として健康診断を受診させることができる」旨を明記したうえで、業務命令として受診を指示することが法的に可能です。ただし、対応には段階的なアプローチが必要であり、まずはメールや書面による複数回の受診勧奨を記録に残したうえで、改善されない場合は産業医や社労士に相談しながら対応方針を決定することをお勧めします。









