毎年、健康診断の案内メールを全社一斉送信して終わり——そんな運用を続けていませんか。中小企業の人事担当者からよく聞こえてくるのは、「案内はしているのに受診率が上がらない」「締め切り直前に未受診者が集中して対応が追いつかない」という声です。
実は、受診率が伸び悩む企業の多くは、対策の方向性ではなく運用の細部に課題を抱えています。法令上の義務を正しく理解し、従業員が受診しやすい仕組みを整えるだけで、受診率は着実に改善できます。本記事では、法的根拠を押さえながら、中小企業でもすぐに実践できる受診率向上の工夫を体系的に解説します。
健康診断の実施は「努力目標」ではなく法的義務
まず前提として確認しておきたいのが、健康診断は経営判断で実施するものではなく、労働安全衛生法に基づく事業者の法的義務だという点です。同法第66条は、事業者が労働者に対して医師による健康診断を実施しなければならないと定めており、違反した場合は50万円以下の罰金(第120条)が科される可能性があります。
また、健康診断の実施にとどまらず、結果に基づいて医師等から意見を聴取すること(第66条の5)、必要に応じて保健指導を行うこと(第66条の7)も義務または努力義務として課されています。受診させて終わりではなく、事後の対応まで含めて事業者の責任範囲と理解してください。
パート・アルバイトへの実施義務はどこまで?
「非正規社員は対象外」と思い込んでいる企業が少なくありませんが、これは誤解です。実施義務の範囲は雇用形態ではなく労働時間の長さによって決まります。
- 正社員の所定労働時間の4分の3以上(週30時間以上が目安)働くパート・アルバイト:実施義務あり
- 正社員の所定労働時間の2分の1以上4分の3未満(週20〜30時間程度):実施が望ましい(努力義務)
- 週20時間未満:義務なし
週30時間以上働くパート従業員を健診対象から外していた場合、法令違反となるリスクがあります。雇用形態にかかわらず、実際の勤務時間で判断する習慣をつけることが重要です。
費用負担は原則として会社が全額負担
費用の一部を従業員に負担させている企業も見受けられますが、法定健康診断の費用については、行政解釈上事業者が全額負担するのが原則です。個人負担を求めると従業員の受診意欲が下がり、受診率低下を招く一因にもなります。また、受診に要する時間についても、厚生労働省の通達では賃金を支払うことが望ましいとされています。費用・時間の両面で従業員の負担を取り除くことが、受診率向上の土台となります。
受診率が低迷する根本原因を特定する
対策を立てる前に、なぜ受診されないのかを把握することが先決です。原因を特定せずに毎年同じ案内を繰り返しても、結果は変わりません。受診率低迷の原因は大きく3つに分類できます。
①アクセスの問題(受診しにくい環境)
- 健診機関が職場から遠い、または少ない
- 平日日中しか受診できず、業務の都合がつかない
- 予約を個人任せにしているため手続きが面倒
②意識・動機の問題(受診する気にならない)
- 「忙しいから後回し」という習慣が定着している
- 「自分は健康だから必要ない」という過信
- 受診が業務の一環として位置づけられていない
③管理・フォローの問題(督促が機能していない)
- 全体向けの一斉メール1本で案内が終わっている
- 未受診者の把握ができておらず、放置されている
- 受診期間が短すぎて予約が取れない
自社の未受診者にどのパターンが多いか、アンケートや個別ヒアリングで確認することから始めましょう。原因が違えば、有効な対策も異なります。
受診率を高める3つの実践アプローチ
アプローチ① 受診しやすい環境を整える
最も効果的な施策のひとつが、巡回健診(出張健診)の導入です。健診機関に職場まで来てもらうことで、従業員の移動時間や交通費の負担がなくなり、「時間がない」という言い訳が通じなくなります。10名前後から対応可能な健診機関も増えており、中小企業でも導入しやすくなっています。
巡回健診の導入が難しい場合は、以下の方法で受診のハードルを下げることができます。
- 土曜日・夜間対応の健診機関を複数選定し、従業員が選べるようにする
- 予約を会社側で代行し、個人任せにしない(「後でやろう」を防ぐ)
- 受診期間を最低3ヶ月確保し、特定の時期に集中しないよう分散させる
- 職場近くの複数のクリニックと提携し、アクセスの選択肢を増やす
アプローチ② 個別フォローと多段階での督促を行う
全社への一斉メールは「誰もが自分ごとと感じない」という落とし穴があります。受診率向上には、未受診者に対する個別のアプローチが不可欠です。
効果的な督促の仕組みとして、以下の流れが参考になります。
- 受診期間開始時:全体への案内と同時に個人宛の受診勧奨通知を送付
- 期間中盤:未受診者リストを把握し、管理職・上司経由で声かけを依頼
- 期限2週間前:個別のリマインド通知(メール・チャットなど複数手段で)
- 最終期限:担当者から直接連絡し、受診日程を確定させる
また、「任意の目標期限」と「絶対の最終期限」の2段階を設けることで、心理的なプレッシャーをうまく活用できます。社内SNSやポスターなどを組み合わせた多チャンネルでの繰り返しリマインドも有効です。
アプローチ③ 受診を「業務」として組織的に位置づける
受診率が安定して高い企業に共通しているのは、健康診断を「任意の健康管理」ではなく業務の一部として明確に位置づけている点です。具体的には以下の取り組みが有効です。
- 就業規則や内規に健康診断の受診義務を明記する(任意ではなく義務であることを明確化)
- 管理職・リーダー層が率先して受診し、職場の雰囲気をつくる
- 部署・チーム単位の受診率を社内公表し、高受診率の部署を表彰する(競争意識の活用)
- 受診日を特別休暇または有給扱いとして認める制度を整える
経営層や管理職が健康管理を重視しているというメッセージを発信し続けることが、職場風土の形成につながります。
見落とされがちな「事後措置」まで対応する
受診率が100%に達しても、それだけでは不十分です。健康診断の目的は受診そのものではなく、異常の早期発見と適切な就業管理にあります。事後措置まで対応して初めて、健康診断の意義が果たされます。
二次健診(精密検査)の勧奨
一次健診で異常所見があった従業員に対して、二次健診の受診を勧めることは事業者の努力義務です(労働安全衛生規則第65条の8)。「二次健診は本人の問題」と放置しているケースが多いですが、受診勧奨の記録を残しておくことがリスク管理上も重要です。
医師等からの意見聴取と就業措置
異常所見のある従業員については、産業医や主治医から意見を聴取し(労働安全衛生法第66条の5)、必要に応じて就業上の措置(残業制限・配置転換など)を講じる義務があります。この仕組みを整えるためには、産業医との連携体制を確立しておくことが前提となります。
産業医との連携に課題を感じている企業は、外部の産業医サービスを活用することで、健診結果の確認・意見聴取・就業措置の判断をスムーズに進めることができます。
健診結果の管理とプライバシー保護
健診結果は要配慮個人情報(個人情報保護法)に該当し、本人の同意なく第三者に提供することは原則禁止されています。上司や管理職への開示は、就業措置の判断に必要な最低限の情報に限定することが求められます。「上司に健診結果を直接渡す」「全員分の結果を共有フォルダで管理する」といった運用はプライバシー侵害・ハラスメントのリスクにつながるため、情報管理のルールを明確にしておきましょう。
実践ポイント:今日から着手できる改善ステップ
受診率向上の取り組みは、大がかりな施策でなくても始められます。以下のステップを参考に、自社の状況に合わせて優先順位をつけて取り組んでください。
- ステップ1:現状把握 過去2〜3年の受診率と未受診者の属性(部署・雇用形態・年代)を確認し、課題のパターンを特定する
- ステップ2:対象者の整理 パート・アルバイトを含め、労働時間に基づいて実施義務の対象者を正確にリストアップする
- ステップ3:受診環境の整備 巡回健診の検討、複数健診機関との提携、予約代行の仕組みづくりを検討する
- ステップ4:督促フローの見直し 一斉案内から個別フォローへと切り替え、管理職を巻き込んだ督促体制を構築する
- ステップ5:事後措置の仕組み化 二次健診勧奨・産業医連携・就業措置の流れを整備し、受診後のフォローアップまで対応する
なお、メンタルヘルス上の理由から受診を避けている従業員がいる場合は、相談窓口の設置も受診率改善に寄与することがあります。メンタルカウンセリング(EAP)の導入により、心身両面からの健康管理体制を整えることも検討に値します。
まとめ
健康診断の受診率向上は、単なる数字の改善ではなく、従業員の健康を守り、企業としての法的リスクを回避するための重要な経営課題です。
受診率が伸び悩む根本原因は「環境」「意識」「管理」の3つのいずれか(または複合)にあります。全社一斉メール1本で案内を終わらせるのではなく、個別フォロー・環境整備・組織的な位置づけという3つのアプローチを組み合わせることが効果的です。
また、パート・アルバイトへの実施義務や費用負担のルール、健診結果のプライバシー管理など、法令上のポイントを正しく理解することが、トラブルや法令違反リスクの回避にもつながります。受診させて終わりではなく、二次健診勧奨・産業医連携・就業措置まで一連の流れとして整備することで、健康診断本来の意義が発揮されます。
まずは自社の未受診者の傾向を把握することから始め、実態に合った改善策を一つずつ積み重ねていきましょう。
よくある質問
パートタイム従業員にも健康診断を実施する義務がありますか?
はい、雇用形態にかかわらず、正社員の所定労働時間の4分の3以上(目安として週30時間以上)働くパート・アルバイト従業員については、事業者に健康診断の実施義務があります。週20〜30時間程度の場合は努力義務とされています。「パートは対象外」と判断している場合は、実際の勤務時間を確認し、法令上の義務範囲を正しく把握することをお勧めします。
健康診断の費用は会社と従業員でどのように分担すべきですか?
法定健康診断(労働安全衛生法に基づくもの)の費用は、行政解釈上、事業者が全額負担するのが原則です。従業員に一部でも負担させると受診意欲が低下し、受診率低下につながるおそれがあります。また、受診に要する時間については、厚生労働省の通達において賃金を支払うことが望ましいとされています。費用・時間の両面で従業員の負担をなくすことが、受診率向上の基本的な土台となります。
受診率向上のために最も効果的な取り組みは何ですか?
受診率が低迷する原因によって有効な対策は異なりますが、多くの企業で効果が見られるのは「巡回健診(出張健診)の導入」と「個別フォロー体制の構築」です。職場に健診機関を呼ぶことで移動・時間の負担がなくなり、個人任せにせず会社側で予約を代行することで手続きのハードルも下がります。加えて、就業規則に受診義務を明記し、管理職が率先して受診することで職場全体の意識が変わりやすくなります。
健康診断の結果を上司や管理職に共有してもよいですか?
健康診断の結果は個人情報保護法上の「要配慮個人情報」にあたり、本人の同意なく第三者に提供することは原則禁止されています。上司や管理職への開示は、就業措置の判断に必要な最低限の情報に限定する必要があります。健診結果をそのまま上司に渡したり、共有フォルダで管理したりすることはプライバシー侵害やハラスメントのリスクにつながるため、情報管理のルールを社内で明確に定めておくことが重要です。









