「うちは少量しか使っていないから、そこまで厳しい規制は関係ないだろう」。化学物質を扱う中小企業の経営者や人事担当者から、こうした声を耳にすることは少なくありません。しかし、2022年から2024年にかけて段階的に施行された労働安全衛生法の改正は、業種や使用量に関わらず、化学物質を取り扱うほぼすべての事業場に影響を及ぼす内容となっています。
行政指導や是正勧告を受けて初めて問題に気づく、というケースが後を絶ちません。対応が遅れれば、労働者の健康被害リスクが高まるだけでなく、法令違反による企業への信頼失墜にもつながります。本記事では、中小企業の経営者・人事担当者が今すぐ把握すべき規制の概要と、現場で実践できる対応策を順を追って解説します。
なぜ今、化学物質管理が重要なのか——改正法の全体像を理解する
今回の規制強化の背景には、従来の「特定の有害物質を個別に規制する」方式から、「事業者が自律的にリスクを管理する」方式への転換という、大きな政策の方向性があります。厚生労働省は、職場での化学物質による健康障害を減らすために、規制の対象物質を大幅に拡大するとともに、事業者に積極的な管理責任を求める体制へとシフトしました。
主な改正点を時系列で整理すると、以下のとおりです。
- 2023年4月施行:リスクアセスメント(作業における危険性・有害性の評価)の対象物質が、従来の約670物質から約2,900物質へと大幅に拡大。リスクアセスメントの実施が「努力義務」から「義務」へ格上げされた。
- 2024年4月施行:リスクアセスメント対象物質を製造または取り扱う事業場に対し、化学物質管理者の選任が義務化。同時に、呼吸用保護具を使用する事業場では保護具着用管理責任者の選任も必要になった。
- SDS(安全データシート)制度の強化:通知義務対象物質の拡大に加え、SDSの記載内容の充実と5年ごとの定期見直しが義務付けられた。
SDSとは、化学物質の危険性・有害性、取り扱い方法、応急措置などを記載した文書で、化学製品を譲渡・提供する際に交付が義務付けられています。これまでは「もらっているだけ」という企業も多かったのですが、今後はSDSの内容を正しく理解し、リスクアセスメントに活用することが求められます。
「自社で使っている化学物質が2,900物質に含まれるかどうかわからない」という方も多いでしょう。対象物質のリストは厚生労働省のウェブサイトで公開されています。まずはサプライヤーから入手したSDSを確認し、対象物質が含まれていないかを確認することが第一歩です。
中小企業が陥りやすい3つの誤解
規制への対応を後回しにしてしまう背景には、いくつかの誤解があります。代表的なものを3つ挙げます。
誤解①「SDSがあればリスクアセスメントは済んでいる」
SDSはリスクアセスメントを行うための「情報源」であって、それ自体がリスクアセスメントの実施を意味するわけではありません。リスクアセスメントとは、実際の作業環境・作業内容・作業者の状況を踏まえて危険性や有害性を評価し、その結果を記録・保存したうえで必要な措置を講じるプロセス全体を指します。SDSを受け取っただけでは、法的な義務を果たしたことにはなりません。
誤解②「少量しか使っていないから対象外だろう」
使用量の多寡は、リスクアセスメント実施義務の有無とは直接関係しません。対象物質を取り扱っている事業場であれば、原則としてリスクアセスメントの実施が義務となります。少量であってもリスクがゼロになるわけではなく、むしろ「少量だから管理が甘い」という状況が事故につながることもあります。
誤解③「化学物質管理者は専門家でなければ務まらない」
化学物質管理者は、必ずしも外部の専門家を招く必要はありません。社内の人材を選任し、外部機関が提供する「化学物質管理者講習」(製造業等では12時間以上の専門講習の修了が努力義務)を受講させることで対応できます。重要なのは、選任した管理者に明確な職務権限を与え、経営者・管理職がバックアップする体制を整えることです。
今すぐ始められる5つのステップ
「何から手をつければいいかわからない」という声に応えるために、優先度の高い順に5つのステップを解説します。
STEP1:化学物質の洗い出しと台帳整備
まず、工場や作業現場で使用しているすべての化学製品を棚卸しし、一覧(化学物質台帳)を作成します。記録すべき主な項目は以下のとおりです。
- 製品名・製品番号
- 使用量・使用頻度
- 使用場所・作業工程
- 主な取り扱い作業者
- SDSの入手状況と最終更新日
台帳整備と並行して、各製品のSDSをサプライヤーに要求し、最新版を揃えることが重要です。SDSには5年ごとの見直し義務が課されていますが、古いままのSDSを使い続けているケースは少なくありません。サプライヤーに対して最新版の提供を積極的に求めてください。
STEP2:リスクアセスメントの実施
化学物質の洗い出しが完了したら、各物質について作業上のリスクを評価します。専門的な知識がなくても取り組める方法として、厚生労働省が無料で提供しているウェブツール「CREATE-SIMPLE(クリエイト・シンプル)」の活用をおすすめします。これはコントロール・バンディングと呼ばれる簡易評価手法をベースにしており、物質の有害性情報と作業条件を入力するだけで、ばく露(化学物質への接触・吸入)リスクの目安を算出できます。
評価の結果は必ず記録・保存してください。リスクアセスメントの結果と講じた措置の記録は、労働基準監督署の調査時にも確認される重要書類です。物質によっては3年から30年の保存義務があります。
STEP3:化学物質管理者と保護具着用管理責任者の選任
2024年4月以降、リスクアセスメント対象物質を取り扱う事業場では、化学物質管理者の選任が義務となっています。まだ選任していない場合は、速やかに対応が必要です。選任にあたっては、以下の点を整理してください。
- 誰を選任するか(社内の適任者を選定)
- どの講習を受講させるか(外部の化学物質管理者講習を確認)
- 職務内容と権限の範囲を明確に文書化する
- 経営者・管理職のバックアップ体制を整える
また、呼吸用保護具(防毒マスク・防じんマスク等)を使用する事業場では、保護具着用管理責任者の選任も必要です。この責任者は、保護具の適切な選定・管理・フィットテスト(マスクが顔に正しくフィットしているかの確認検査)の実施と記録を担います。
STEP4:ばく露防止措置の実施
リスクアセスメントの結果、一定以上のリスクが確認された場合は、ばく露(作業者が化学物質にさらされること)を防ぐための措置を講じる義務があります。措置の優先順位は法令上も明確にされており、以下の順番で検討することが基本です。
- ①工学的対策:換気装置の設置、密閉化、作業工程の自動化など、根本的に発散を抑える対策
- ②管理的対策:作業時間の短縮、作業手順の見直し、立ち入り制限など
- ③保護具(PPE)の使用:防毒マスク、保護手袋、保護眼鏡など。上記の対策が困難な場合や補完的手段として活用
保護具はあくまで最後の手段であり、工学的対策が可能であればそちらを優先することが原則です。
STEP5:労働者への教育・周知
法令対応の最終ステップは、現場の労働者への教育です。SDSの内容、リスクアセスメントの結果、具体的な取り扱い手順と緊急時の対応方法を伝えることが求められます。教育は新規採用時だけでなく、取り扱う化学物質が変更されたときや、作業手順が変わったときにも実施する必要があります。教育を実施した記録(実施日、参加者名、内容)は必ず保存してください。
化管法・毒物劇物取締法との関係も忘れずに
職場の化学物質管理においては、労働安全衛生法だけでなく、関連する法律の要件も確認が必要です。
化管法(特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律)では、第一種指定化学物質(515物質)を一定量以上取り扱う事業者に対して、毎年の排出量・移動量の届出(PRTR届出)が義務付けられています。届出の期間は毎年4月1日から6月30日までです。また、化学物質を譲渡・提供する際のSDS交付義務も化管法に基づいています。
毒物及び劇物取締法では、毒物・劇物の製造・販売・取り扱いに関する規制が定められており、一定の要件を満たす事業場では毒物劇物取扱責任者の設置が必要です。取り扱い、保管、廃棄のいずれの場面でも法令上の要件がありますので、自社が使用している化学物質が毒物・劇物に該当するかどうかを確認してください。
化学物質を含む廃棄物の処理についても注意が必要です。産業廃棄物として適正に処理する義務があり、不適切な廃棄は廃棄物処理法違反にもなりかねません。廃棄物処理業者との契約内容を見直す機会としてください。
外部リソースを賢く活用する
「専任担当者もおらず、対応する時間も人手もない」という中小企業の実情は、行政側も十分に認識しています。対応を一人で抱え込む必要はありません。活用できる外部リソースを整理します。
産業保健総合支援センター(無料相談)
各都道府県に設置されている産業保健総合支援センターでは、化学物質管理を含む産業保健全般に関する相談を無料で受け付けています。専門の相談員や産業医・労働衛生コンサルタントが対応してくれるため、「まず相談してみる」という活用法が有効です。
労働衛生コンサルタント
国家資格を持つ労働衛生コンサルタントは、リスクアセスメントの実施支援、化学物質管理者の教育、管理体制の構築支援などを専門的に行います。費用はかかりますが、自社の状況に合わせたアドバイスを得られるため、対応の質と速度が大きく向上します。
厚生労働省の無料ツール・ガイダンス
前述のCREATE-SIMPLEのほか、厚生労働省のウェブサイトでは、化学物質管理に関するガイダンス文書、教育用資料、チェックリストなどが無料で公開されています。まずはこれらを活用して、自社の現状把握から始めることをおすすめします。
実践ポイント——今週から動き出すために
規制対応は、一度に完璧を目指す必要はありません。「できていないことをリストアップし、優先度をつけて着実に進める」という姿勢が重要です。以下の項目を確認するところからスタートしてください。
- 化学物質台帳が存在するか:なければ今すぐ作成を開始する
- すべての製品のSDSが最新版で揃っているか:古い場合はサプライヤーに更新を要求する
- リスクアセスメントを実施し、記録が残っているか:未実施であればCREATE-SIMPLEを使って着手する
- 化学物質管理者を選任しているか:未選任であれば対象者と講習受講の計画を立てる
- 労働者への教育記録が保存されているか:なければ教育の機会を設け記録を整備する
また、定期的に化学物質管理の状況を経営会議等で確認するルーティンを設けることも、継続的な対応を支えるうえで効果的です。法令の改正情報は厚生労働省のウェブサイトや、所属する業界団体・商工会議所などを通じてキャッチアップする習慣をつけることをおすすめします。
まとめ
2022年から2024年にかけて施行された労働安全衛生法の改正により、職場における化学物質の管理責任は、中小企業においても格段に重くなりました。リスクアセスメントの義務化、化学物質管理者・保護具着用管理責任者の選任義務化、SDSの定期見直し義務化——これらはいずれも、自社に関係する可能性が高い要件です。
「規制が複雑で全体像がつかめない」「人手もコストも限られている」という状況は多くの中小企業に共通する悩みです。しかし、対応を先送りにすることで生じる労働者の健康被害リスクや法令違反のリスクは、長期的にははるかに大きなコストをもたらします。
まずは化学物質台帳の整備とSDSの収集から始め、産業保健総合支援センターや労働衛生コンサルタントといった外部リソースも活用しながら、段階的に管理体制を構築していくことが現実的な道筋です。完璧な体制を一夜で整えることは難しくても、「今日より明日、少しだけ安全な職場に近づける」という継続的な取り組みこそが、労働者を守り、企業を守ることにつながります。
よくある質問
Q1: 少量の化学物質しか使用していない場合、リスクアセスメントは本当に必須ですか?
はい、使用量の多寡に関わらず、対象物質を取り扱っている事業場であればリスクアセスメント実施は原則として義務です。少量であってもリスクがゼロになるわけではなく、むしろ管理が甘くなりやすいため危険性が高まります。
Q2: 化学物質管理者として選任できるのは外部の専門家だけですか?
いいえ、必ずしも外部の専門家を招く必要はありません。社内の人材を選任し、外部機関の化学物質管理者講習を受講させることで対応できます。重要なのは管理者に明確な職務権限を与え、経営層がバックアップすることです。
Q3: SDSを受け取れば、リスクアセスメントの実施義務は果たされるのですか?
いいえ、SDSはリスクアセスメント実施のための「情報源」に過ぎません。実際の作業環境・作業内容を踏まえて危険性を評価し、結果を記録・保存したうえで措置を講じるプロセス全体の実施が義務であり、SDSの取得だけでは不十分です。
労働法改正への対応や安全衛生管理体制の整備には、INTERMINDの産業医サービスが力になります。専門家による継続的なサポートで法令対応を進められます。









