「うちの会社でメンタルヘルスの労災が認定されることはないだろう」——そう考えていた経営者・人事担当者がある日、労働基準監督署から調査協力を求める連絡を受ける。近年、精神障害の労災請求件数は増加傾向にあり、厚生労働省の統計によると2022年度の精神障害に関する労災請求件数は3,035件と過去最多水準に達しています。そして2023年9月、約12年ぶりとなる認定基準の大幅改正が施行されました。
改正によって何が変わったのか。自社の対応は現行の基準に照らして十分なのか。本記事では、中小企業の経営者・人事担当者が今すぐ把握すべき改正内容と、実務上の対応ポイントを解説します。
2023年改正で何が変わったのか——主要ポイントの整理
精神障害の労災認定基準は、2011年(平成23年)に「心理的負荷による精神障害の認定基準」として策定されました。それから約12年を経て、2023年(令和5年)9月に大幅な改正が行われています。まずは改正の骨格を押さえましょう。
認定要件の基本構造(変更なし)
労災として認定されるためには、以下の3つの要件をすべて満たす必要があります。この基本構造自体は改正後も変わっていません。
- 対象疾病(うつ病・PTSDなど)を発病していること
- 業務による強い心理的負荷(ストレス)が認められること
- 業務以外の心理的負荷や個人の特性・既往症によって発病したとは認められないこと
対象疾病はICD-10(国際疾病分類)に基づく精神・行動障害であり、うつ病・双極性障害・統合失調症・外傷後ストレス障害(PTSD)などが含まれます。
心理的負荷評価表の改正——新たに追加・見直された項目
今回の改正で最も実務に影響するのが、「心理的負荷評価表」の見直しです。業務上の出来事がどの程度のストレス強度に該当するかを判断するこの評価表に、以下の変更が加えられました。
カスタマーハラスメント(カスハラ)の新規追加
顧客や取引先からの暴言・不当要求・長時間の拘束などが、新たに独立した評価項目として追加されました。これまでは「対人関係のトラブル」などの項目に包含されて評価されていましたが、今回の改正でカスハラが明示的に類型化されたことは、特にサービス業・小売業・飲食業を営む中小企業にとって重要な変更です。
パワーハラスメントの評価対象の拡大
従来は「上司等」によるハラスメントが評価対象でしたが、改正後は「上司等・同僚・部下」によるハラスメントも評価対象に含まれるようになりました。職場内の人間関係全体がリスク管理の対象となったと理解してください。
セクシャルハラスメントに関する評価の見直し
ハラスメント被害そのものに加えて、被害を受けた後の会社対応の不適切さ(相談を無視した、加害者をかばった、被害者を異動させたなど)も評価対象に加わりました。被害発生後の企業対応が労災認定に直接影響し得る点は、経営者・人事担当者として特に認識しておく必要があります。
その他の新規追加項目
「悲惨な事故や災害の目撃」が新たに追加され、心理的負荷強度「強」相当として評価されることになりました。また、業務上の重大なミスや過誤については、その後の処分等も含めた総合的な評価が行われるようになっています。
複数の出来事が重なった場合の「総合評価」の明確化
心理的負荷の強度は「強・中・弱」の3段階で判定されます。「強」と判定された場合は業務起因性が原則認められ、「中」の場合は他の出来事との組み合わせによって「強」に引き上げられる可能性があります。今回の改正では、こうした複数の出来事が重なった場合の総合評価の考え方がより明確化されました。
例えば、長時間労働(心理的負荷「中」)と同僚からのハラスメント(心理的負荷「中」)が重なっている場合、総合的に「強」と評価され得ます。一つひとつの出来事が「認定基準に届かない」レベルであっても、複合的な判断によって認定される可能性があることは、見落とされやすいポイントです。
長時間労働と精神障害——押さえておくべき時間の目安
精神障害の労災認定において、長時間労働は引き続き重要な評価軸です。以下の時間外労働の目安は、人事・労務管理の現場で必ず把握しておく必要があります。
- 発病前1か月に160時間以上の時間外労働:極めて強い負荷として「強」に相当
- 発病前2〜6か月間に月平均80時間以上の時間外労働:「強」に相当
- 発病前1か月に100時間以上の時間外労働:「強」に近い水準として評価される
月80時間という数字は、いわゆる「過労死ライン」として知られていますが、精神障害の労災においても同様の水準が一つの目安となっています。タイムカードやPCのログなど客観的な方法で労働時間を把握・管理することは、法令上の義務であるとともに、労災リスクを低減するうえでも不可欠です。
また、管理職についても労働時間の把握が必要である点を見落とさないでください。「管理監督者だから労働時間規制は適用されない」という誤解が中小企業の現場では依然として見られますが、深夜割増賃金の適用や安全配慮義務の観点から、管理職の労働実態を把握することは経営者の責務です。
中小企業が今すぐ取り組むべき予防体制の整備
労災認定基準の改正を踏まえ、「事後対応」ではなく「予防」の観点から体制を整えることが重要です。大企業と同じ規模の対応は難しくても、最低限講じるべき措置があります。
ストレスチェック制度の活用
ストレスチェック(労働者のストレス状態を定期的に確認する検査制度)は、常時50人以上の労働者を使用する事業場では年1回の実施が法律上義務付けられています。50人未満の事業場は努力義務とされていますが、メンタルヘルス不調の早期発見という観点から積極的な活用が推奨されます。
重要なのは、実施すること自体が目的ではなく、高ストレス者と判定された従業員への医師による面接指導を確実に行い、その結果を職場環境の改善に活かすPDCAサイクルを回すことです。チェックを実施しながら高ストレス者への対応が形骸化しているケースでは、実施の事実がかえって「問題を把握していたにもかかわらず対処しなかった」という証拠になりかねません。
ハラスメント防止体制の整備
パワーハラスメント防止措置の義務化(労働施策総合推進法に基づく)は、企業規模を問わずすべての事業主に課せられています。今回の改正でパワハラの評価対象が「上司等・同僚・部下」に拡大されたことを踏まえると、職場内の人間関係全体を視野に入れた体制整備が必要です。
具体的には以下の対応が求められます。
- ハラスメントの内容・対応方針を就業規則や社内規程に明記する
- 相談窓口を設置し、従業員に周知する(外部機関の活用も有効)
- カスタマーハラスメントに対する対応方針・マニュアルを策定する
- 相談者のプライバシー保護と不利益取り扱い禁止を徹底する
カスハラ対応については、「お客様は神様」という意識が根強い職場では特に遅れが見られます。従業員を守るためのルールを明示し、会社として毅然とした対応を取る姿勢が、今や企業の安全配慮義務の一部と捉えられています。
管理職教育の定期的な実施
「指導」と「ハラスメント」の境界線が曖昧なまま管理職が現場を運営しているケースは少なくありません。業務上必要な指導であっても、態様・頻度・言葉の選び方によってはハラスメントと評価されます。
管理職向けに最低限実施したい教育内容としては、以下が挙げられます。
- ハラスメントの定義と具体的な該当事例の理解
- 部下のメンタルヘルス不調のサイン(欠勤・遅刻の増加、業務ミスの増加、表情・言動の変化など)への気づき方
- 不調が疑われる部下への声のかけ方と、人事・産業保健スタッフへの連携方法
外部の研修サービスやオンライン学習ツールを活用すれば、専任の担当者がいなくても一定の教育効果を得ることができます。
労災申請が来た場合——企業として取るべき対応と避けるべき行動
万が一、従業員から精神障害の労災申請がなされた場合、企業側の対応が後の調査や訴訟において重要な意味を持ちます。
申請への妨害・抑制は厳禁
労働者が労災申請を行う権利は法律で保障されており、申請を妨害したり、申請しないよう圧力をかけたりすることは労働者災害補償保険法違反にあたります。また、そのような対応が明らかになった場合、労働基準監督署や裁判所における心証を著しく悪化させます。申請の事実を受け止め、適切な手続きに協力する姿勢が求められます。
調査への誠実な対応と記録の保全
労働基準監督署による調査には、事実に基づいて誠実に協力することが原則です。その際、平素からの記録保全が企業側の正確な事実説明を支えます。具体的には以下の記録を適切に保存しておくことが重要です。
- 勤怠記録(タイムカード・入退室ログ・PCログなど客観的なもの)
- 業務指示・面談・指導の記録(日時・内容・担当者を明記)
- メール・チャットなどのログ(保存期間の社内ルールを設定しておく)
- ストレスチェックの結果・面接指導の記録
民事損害賠償請求との連動リスクを見落とさない
労災認定は行政上の判断ですが、それとは別に、従業員または遺族から民事上の損害賠償請求(安全配慮義務違反を根拠とするもの)が提起される可能性があります。労災認定がなされた場合、民事訴訟において企業側に不利な状況を作り出す可能性は否定できません。申請を受けた段階で、顧問弁護士や社会保険労務士に速やかに相談し、リスクの全体像を把握しておくことが肝要です。
実践ポイント——今日からできる優先対応
改正内容の把握から体制整備まで、一度にすべて対応することが難しい場合は、以下の優先順位で取り組むことをお勧めします。
- 【最優先】就業規則・ハラスメント規程の確認と更新:パワハラの評価対象に同僚・部下が加わったことを踏まえ、規程の内容が現行基準に照らして適切かを確認する
- 【最優先】カスタマーハラスメント対応方針の策定:特にサービス業・接客業では、顧客からの不当行為への対応ルールを明文化する
- 【優先】労働時間管理の客観的記録の徹底:管理職を含めた全従業員の労働時間を客観的方法で把握・記録する体制を整える
- 【優先】管理職向けハラスメント・メンタルヘルス研修の実施:少なくとも年1回、外部研修・オンライン学習等を活用して実施する
- 【推奨】ストレスチェックの導入・充実:50人未満でも自社の実態把握のために導入を検討する。実施後の高ストレス者対応フローを必ず整備する
- 【推奨】顧問社労士・弁護士との情報共有:改正内容について専門家と情報をアップデートし、自社の対応状況を定期的に点検する
まとめ
2023年9月施行の精神障害に関する労災認定基準の改正は、カスタマーハラスメントの新規追加、パワーハラスメントの評価対象拡大、セクシャルハラスメント後の会社対応の評価対象化など、中小企業の日常的な職場管理に直接影響する内容を多く含んでいます。
「精神障害の労災はめったに認定されない」という認識は、もはや実態と乖離しています。請求件数の増加傾向、認定基準の整備・拡充、そして社会全体のメンタルヘルスへの意識の高まりを踏まえると、中小企業であっても「対岸の火事」とは言えない状況です。
大切なのは、問題が起きてから慌てて対応するのではなく、日常の労務管理・ハラスメント防止体制・管理職教育を継続的に整備・改善していくことです。それは企業リスクの低減であると同時に、働く従業員が安心して業務に取り組める職場環境を作ることにつながります。まずは今回の改正内容を社内で共有し、自社の対応状況の点検から始めてみてください。
よくある質問
Q1: 2023年の改正で、カスタマーハラスメントが追加されたのはなぜですか?
これまでカスハラは「対人関係のトラブル」に含まれていましたが、サービス業・小売業・飲食業などでの被害が増加していることを受け、労災認定基準を厳格化する必要があったためです。独立した評価項目として明示することで、これらの業種で働く労働者の保護が強化されました。
Q2: セクハラの被害を受けた後の会社の対応が、労災認定に影響するというのはどういう意味ですか?
改正後は、セクハラ被害そのものだけでなく、相談を無視した、加害者をかばった、被害者を異動させたなど、被害後の企業対応の不適切さも評価対象に含まれるようになりました。つまり、企業が適切に対応しなかった場合、それが心理的負荷を増加させる要因と判断され、認定の可能性が高まるということです。
Q3: 複数の出来事が重なった場合、どのように評価されるのですか?
例えば長時間労働と同僚からのハラスメントが重なっている場合、一つひとつの出来事は「中」レベルであっても、総合的に「強」と評価され得ます。つまり、複数の「認定基準に届かない」レベルの出来事でも、組み合わさることで労災認定される可能性があるということです。
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