「求人を出しても応募が来ない」「せっかく採用しても1年以内に辞めてしまう」――中小企業の経営者・人事担当者から、こうした声が絶えません。少子高齢化による労働人口の減少と、大企業との待遇格差が重なり、中小企業の人材確保はかつてないほど困難になっています。
そのような状況の中で、近年注目を集めているのが「健康経営」という考え方です。健康経営とは、従業員の健康管理を経営課題として捉え、戦略的に投資・実践していく経営手法を指します。単なる福利厚生の充実とは異なり、生産性向上・離職防止・採用力強化といった経営上のメリットと直接結びつく点が特徴です。
本記事では、中小企業が健康経営を通じて人材確保・定着につなげるための具体的な戦略を、法律・制度の情報も交えながら解説します。「コストがかかるのでは」「大企業向けの話では」といった疑問にもお答えしますので、ぜひ最後までお読みください。
なぜ今、健康経営が人材確保に直結するのか
求職者、特にZ世代(1990年代後半〜2000年代生まれ)や女性の働き手は、給与水準だけでなく「働きやすさ」「企業の姿勢・文化」を重視して就職先を選ぶ傾向が強まっています。厚生労働省の調査でも、職場環境や健康管理体制が転職理由や就職先選択に影響を与えるとする回答が年々増加しています。
一方、採用に失敗したときのコストは見過ごせません。1人の採用にかかる費用(求人広告費・紹介手数料など)は数十万円から100万円を超えるケースも珍しくなく、採用後の育成コストまで含めると、離職1件あたりの損失は年収の0.5〜1.5倍ともいわれています。離職率をわずか1%改善するだけで、年間数百万円の採用コスト削減効果につながる場合もあるのです。
健康経営への取り組みは、こうした課題に対して二方向から作用します。一つは「選ばれる企業」になること(採用力の強化)、もう一つは「働き続けたい職場」になること(定着率の向上)です。この両輪が回り始めたとき、健康経営は単なる「従業員向けの施策」を超えて、企業の競争力そのものを高める経営戦略となります。
健康経営優良法人認定制度:中小企業が活用すべき「見える化」ツール
経済産業省が推進する「健康経営優良法人認定制度」は、健康経営に取り組む企業を認定・公表する制度です。大規模法人部門と中小規模法人部門(通称:ブライト500)に分かれており、中小企業向け部門は原則として従業員数300人以下の法人が対象となっています(業種により異なります)。
認定を取得することで得られる実務上のメリットは少なくありません。
- 採用面での差別化:Indeed・マイナビなどの求人媒体で「健康経営優良法人」のフィルター検索が可能になりつつあり、求職者の目に留まりやすくなります。
- 融資・入札での優遇:金融機関によっては健康経営に取り組む企業を評価する融資商品があり、公共入札での加点対象とする自治体も増えています。
- 社内の意識向上:認定という外部からの評価が従業員のエンゲージメント(仕事への積極的関与)向上につながることがあります。
- 採用ページ・会社案内での活用:認定マークをホームページや求人票に掲載することで、企業としての信頼性を視覚的に示せます。
申請は日本健康会議経由で毎年受付が行われています。重要なのは、認定取得はあくまで「手段」であり「目的」ではないという点です。形式的な申請書作成に終始し、現場の実態が変わらない「見せかけ健康経営」は、従業員の不信感やエンゲージメント低下を招くリスクがあります。認定を目指しながらも、実質的な職場環境の改善を同時進行させることが重要です。
法律を押さえた上で始める:義務と努力義務の整理
健康経営を進める前提として、現行の法律上の義務を正確に把握しておく必要があります。法令遵守は健康経営の土台であり、「まず法律を守ること」が出発点です。
従業員50人以上の企業が対応すべき事項
- 産業医の選任(労働安全衛生法):専門的な立場から従業員の健康管理をサポートする医師を選任する義務があります。
- 衛生委員会の設置:労働者の健康障害防止や健康保持増進に関する事項を調査・審議する組織の設置が求められます。
- ストレスチェックの実施:年1回、全従業員を対象としたストレスチェック(メンタルヘルスの自己チェック)の実施が義務づけられています。
- 定期健康診断の実施(労安衛法第66条):年1回の定期健康診断の実施と受診率100%の確保は、規模を問わず法的義務です。
従業員50人未満の企業が活用できる支援
50人未満の企業では産業医の選任は義務ではありませんが、「地域産業保健センター(地産保)」が無料で相談・支援を提供しています。産業医や保健師による健康相談、ストレスチェックの実施サポートなどを無償で受けられるため、専任スタッフがいない中小企業にとって非常に有用な制度です。
また、時間外労働については働き方改革関連法により、月45時間・年360時間が原則的な上限として定められています。長時間労働の放置は、労働契約法第5条が定める安全配慮義務(使用者が労働者の安全を配慮する義務)に違反するリスクがあり、従業員から損害賠償を請求される事態につながりかねません。法的リスクの観点からも、労働時間管理の適正化は最優先事項の一つです。
なお、心理的負荷による精神障害の労災認定基準は2023年に見直されており、認定される範囲が拡大しています。メンタルヘルス対策を後回しにすることは、企業にとって経営上のリスクでもあることを認識しておく必要があります。
専門的なサポートが必要な場合は、産業医サービスを活用することで、企業規模に応じた適切な健康管理体制の構築を専門家と一緒に進めることができます。
低コストで始める健康経営:具体的な施策と優先順位
「健康経営は大企業向けで、コストがかかる」というのは大きな誤解です。健康経営優良法人(中小規模部門)の認定企業の多くは、ゼロ〜低コストの施策から取り組みをスタートさせています。以下に、優先度の高い施策を整理します。
まずコストゼロでできること
- 定期健康診断の受診率100%化:法的義務の徹底から始めることで、健康経営の土台が整います。受診率が低い企業は、まずここを改善するだけで認定要件の一部を満たせます。
- 長時間労働の是正:残業時間の実態を把握し、業務の見直しや人員配置の調整を行うことは、追加コストなしに実施できます。長時間労働の改善は、従業員の心身の健康維持に最も直接的に寄与します。
- 昼休みの休憩確保:休憩時間中に業務連絡を行わないルールの徹底など、すぐに取り組める環境整備です。
- 禁煙・分煙環境の整備:喫煙場所の見直しや就業時間中の喫煙ルール設定は、低コストで実施できる健康施策です。
低コストで効果が見込める施策
- ストレスチェックの実施と集団分析の活用:50人未満の企業では努力義務ですが、集団分析(職場ごとのストレス傾向を把握する分析)を活用することで、職場環境の問題点を客観的に把握できます。
- 歩数管理アプリ・健康アプリの導入:無料または低コストで利用できるアプリを活用した健康増進施策は、従業員の参加意欲も高まりやすいです。
- 管理職へのラインケア研修:部下のメンタル不調のサインに気づき、適切に対応するための研修です。外部機関が提供する低価格の研修プログラムを活用することで、コストを抑えられます。
活用できる補助金・助成金
取り組みにコストが発生する場合は、公的な補助制度の活用を検討してください。
- 働き方改革推進支援助成金(厚生労働省):長時間労働の改善や業務効率化に取り組む企業を支援する助成金です。
- キャリアアップ助成金(健康診断制度コース):有期契約労働者などに対して法定外の健康診断を実施した場合に支給されます。
- 各都道府県・市区町村の独自補助制度:地域によっては健康経営の推進に対する独自の補助が用意されている場合があります。地域の商工会議所や産業保健推進センターに問い合わせることをお勧めします。
- 健保組合のコラボヘルス:加入している健康保険組合と連携して保健事業を行う「コラボヘルス」は、健保の資源を活用できるため自社のコスト負担を減らせます。
健康経営を「人材確保」に結びつける実践ポイント
健康経営の取り組みを採用・定着という成果に結びつけるためには、施策の実施だけでなく「見える化」と「発信」が不可欠です。
測定指標を設定して効果を可視化する
健康経営の効果を経営層や従業員に示すために、以下のような指標を年次で測定・記録することをお勧めします。
- 定期健康診断の受診率
- 月平均残業時間・有給休暇取得率
- 離職率・休職者数
- ストレスチェックの高ストレス者比率
- 採用応募数・内定承諾率
これらを年1回「健康経営レポート」としてまとめ、社内に共有するとともに採用ページにも掲載することで、求職者に対して取り組みの具体性と継続性を伝えられます。
採用活動での積極的な発信
- 求人票に健康経営優良法人の認定マークを掲載する
- 会社ホームページに「健康への取り組み」専用ページを設け、具体的な施策と数値を公開する
- 認定取得後はプレスリリースを作成し、地域メディアや業界メディアへの掲載を働きかける
トップのコミットメントと「健康経営宣言」
健康経営が形骸化する最大の原因は、経営者や管理職のコミットメント不足です。経営者自らが「健康経営宣言」を社内外に表明することで、取り組みに後戻りしにくい環境を作ることができます。また、管理職研修にメンタルヘルスやラインケア(管理職が部下の健康に配慮するケア)を組み込み、現場の管理職が健康経営の担い手となる仕組みを整えることも重要です。
従業員ニーズを確認した上で施策を設計する
経営者が「健康のために」と善意で導入した施策でも、従業員のニーズと合っていなければ反発や形骸化を招きます。施策の設計前に従業員アンケートやストレスチェックの集団分析を活用し、現場が実際に何を必要としているかを把握することが、施策の効果を高める上で欠かせません。
メンタルヘルスの相談窓口として社外の専門機関を活用することも有効な手段の一つです。メンタルカウンセリング(EAP)を導入することで、従業員が職場に気兼ねなく相談できる環境を整えることができ、不調の早期発見・離職防止につながります。
まとめ:健康経営は中小企業の「採用戦略」の核になりえる
健康経営は、大企業だけの話でも、コストのかかる話でもありません。定期健康診断の徹底、長時間労働の是正、ストレスチェックの実施といった基本的な取り組みから始め、それを「見える化」して求職者や社会に発信する。この一連の流れが、中小企業の採用力強化と人材定着に直結する経営戦略となります。
健康経営優良法人の認定取得はその過程での有力な手段ですが、最終的な目的はあくまで「従業員が健康で、意欲を持って働き続けられる職場をつくること」です。その姿勢が本物であるとき、求職者や既存の従業員はそれを感じ取り、「ここで働きたい・働き続けたい」という意思決定につながっていきます。
まずは自社の現状(受診率・残業時間・離職率など)を数値で把握することから始めてみてください。現状の可視化が、健康経営の第一歩です。
よくある質問
健康経営優良法人の認定を取得するには、どのくらいの費用と時間がかかりますか?
認定申請そのものに費用はかかりません。ただし、申請要件を満たすために施策の整備が必要な場合は、そのための費用と準備時間が発生します。低コスト施策(健診受診率の向上・長時間労働の改善など)を中心に取り組めば、数万円以内の追加コストで申請要件を満たした事例もあります。準備期間は、現状の整備状況にもよりますが、本腰を入れて取り組めば6か月〜1年程度で申請にたどり着くケースが多いとされています。
従業員が10人程度の小規模な会社でも健康経営に取り組む意味はありますか?
十分に意味があります。従業員数が少ないほど、1人の離職や長期休職が事業に与えるダメージは相対的に大きくなります。また、地域産業保健センターの無料サポートはむしろ小規模企業向けの制度であり、コストをかけずに専門家のサポートを受けられます。小規模であるがゆえに経営者の意思が直接職場環境に反映されやすいという利点もあり、取り組みの成果が出やすい面もあります。
ストレスチェックは50人未満の会社では義務ではないと聞きましたが、実施した方がよいですか?
実施することを推奨します。50人未満の企業では努力義務(法律上は「努めなければならない」とされる義務)ですが、ストレスチェックは従業員のメンタル不調を早期に把握し、職場環境の改善につなげる有効なツールです。実施結果の集団分析を活用することで、どの部署・職種にストレス要因があるかを客観的に把握でき、具体的な改善策を立てやすくなります。地域産業保健センターでは無料での実施サポートも提供しているため、コスト面での障壁も低いといえます。
健康経営の推進に取り組む企業様には、INTERMINDの産業医サービスをご検討ください。健康経営優良法人認定の取得支援も行っています。









