「健康経営に取り組みたいとは思っているが、経営者をどう動かせばいいかわからない」——中小企業の人事・総務担当者から、こうした声を聞く機会は少なくありません。一方で、経営者の側も「健康経営が大切なのはわかるが、具体的にどんな効果があるのか、うちの規模でやる意味があるのか」と感じているケースが多いようです。
この「担当者は動きたいが経営者が動かない」という構図が、中小企業における健康経営推進の最大のボトルネックになっています。健康経営は、担当者レベルの努力だけでは限界があります。経営者のコミットメント——つまり、トップが本気で関与し、予算・権限・発信力を提供することが不可欠です。
本記事では、経営者が「やろう」と決断するための提案設計の考え方を、法的根拠・数値・制度情報とともに体系的に解説します。「なぜ動いてくれないのか」を理解したうえで、「どう伝えれば動いてもらえるか」の実践的なアプローチを紹介します。
なぜ経営者は健康経営に動かないのか:構造的な理由を理解する
提案が通らないとき、担当者は「説明が足りなかった」「データが弱かった」と自分を責めがちです。しかし問題の多くは、提案の内容よりも経営者の認知の構造にあります。
中小企業の経営者は、日々の売上・資金繰り・人材確保といった「今すぐ解決が必要な課題」に追われています。そこに「健康経営に取り組みましょう」という提案が来ても、優先順位がどうしても低くなります。「コストがかかるが効果がいつ出るかわからない施策」として認識されやすいのです。
また、「健康経営は大企業のやること」という先入観も根強く残っています。従業員が数十人規模の企業では、「制度として整備するほどでもない」「今の社員は元気だから大丈夫」と感じているケースも少なくありません。
しかし、実態は逆です。中小企業こそ、一人の従業員が長期離脱した場合のダメージが大きく、健康リスクへの対処が遅れると事業の継続そのものに影響しかねません。この「リスクの非対称性」を経営者に正確に伝えることが、提案の第一歩になります。
経営者が動く「言語」に翻訳する:健康経営を経営課題として提示する
健康経営の提案が通らない最大の理由の一つは、「健康の言語」で話しているからです。経営者が関心を持つのは、売上・コスト・リスク・採用・競争力です。提案の内容を、この経営言語に変換する作業が不可欠です。
離職・採用コストの試算を見せる
厚生労働省や民間調査機関のデータによると、中途採用にかかるコストは職種・企業規模によって異なりますが、一人あたり数十万円から百万円以上に上ることも珍しくありません。そこに教育・引き継ぎ期間の生産性低下を加えると、一人の離職が及ぼす実質的な損失はさらに大きくなります。
健康問題を起因とした離職や長期休職が発生した場合、このコストが直接経営を圧迫します。「健康投資=コスト」ではなく、「健康への無関心=隠れたコスト」という視点を提示することで、経営者の認識が変わることがあります。
プレゼンティーイズムによる損失を可視化する
プレゼンティーイズムとは、身体的・精神的な不調を抱えながらも出勤しているために生産性が低下している状態のことです。欠勤(アブセンティーイズム)と異なり、表面上は「出ている」ため見落とされがちですが、研究によると、このプレゼンティーイズムによる損失は欠勤よりも大きいケースがあるとされています。
東京大学や日本経済団体連合会などが提供する試算モデルを活用すると、自社の従業員数・平均給与をもとに「生産性損失額」を概算することができます。「うちの会社では年間XX万円の損失が生じている可能性がある」という形で提示することで、経営者の危機感を喚起しやすくなります。
法的リスクとしての安全配慮義務を伝える
労働契約法第5条は、企業規模を問わずすべての使用者に安全配慮義務を課しています。これは、従業員が健康を損なわないよう必要な措置を講じる義務であり、怠った場合には損害賠償責任を問われる可能性があります。過去には、過重労働による健康被害や精神疾患を起因とした民事訴訟で、企業側に数千万円規模の賠償命令が下された事例も報告されています。
「健康経営は義務ではない」と思っている経営者も多いですが、安全配慮義務は義務です。この法的責任を基点に話を進めることで、「任意の取り組み」ではなく「経営上の必須事項」として認識してもらえるケースがあります。
「小さく始める」提案設計:一気呵成を求めない
経営者が健康経営に踏み出せない理由の一つに、「大がかりなことをしなければいけない」という思い込みがあります。担当者の側も、制度や施策を一度に説明しようとして、かえって「複雑で手が出せない」という印象を与えてしまうことがあります。
効果的な提案は、入口を小さく設計することです。
健康経営宣言から始める
経済産業省が推進する健康経営優良法人認定制度(中小規模法人部門)では、申請の要件の一つとして「経営者による健康宣言」が求められます。この宣言自体は、経営者が「従業員の健康を経営の重要事項として位置づける」と表明する文書であり、特別な設備投資は必要ありません。
「まず宣言を出すだけで、認定申請の第一歩になります」という形で提案することで、経営者にとっての心理的ハードルが大幅に下がります。また、この宣言を社内に掲示・周知することで、形式的なコミットメントが可視化され、その後の施策推進がしやすくなります。
ストレスチェックの自主実施を提案する
労働安全衛生法によると、ストレスチェックの実施義務は従業員50人以上の事業所に課されています。しかし、50人未満の企業でも実施することは可能であり、実施している企業は採用競争力の面で差別化できるという側面があります。
ストレスチェックは、従業員のメンタルヘルス状態を把握する最もシンプルな入口の一つです。費用も比較的小さく、結果として「問題がない」とわかれば経営者にも安心感が生まれ、「問題がある」とわかれば対処の必要性が明確になります。いずれにせよ、経営者にとってメリットのある提案として設計できます。
なお、メンタルヘルス支援の充実を検討する際には、メンタルカウンセリング(EAP)の導入も、外部専門家を活用した無理のない方法として有効です。
健康経営優良法人認定の「実利」を経営者に伝える
経営者が最も関心を持ちやすいのは、「それをやると何かいいことがあるのか」という実利的なメリットです。健康経営優良法人の認定制度は、この訴求において非常に有効なツールです。
採用競争力への影響
求職者、特に若い世代は就職先を選ぶ際に「働きやすさ」「職場環境」を重視する傾向が高まっています。健康経営優良法人の認定を受けていることは、採用ページや求人票に明示できる「目に見えるシグナル」として機能します。実際に、認定取得後に求人応募数が増加したという事例も複数報告されています。
金融機関・取引先との関係
ESG(環境・社会・ガバナンス)やSDGsへの関心が高まる中、取引先・金融機関が取引先の健康経営への取り組みを評価する動きが一部で始まっています。認定取得が、融資や入札における評価項目として加点されるケースも出てきています。
「健康経営は社内の話」と思われがちですが、外部ステークホルダーへの信頼性向上という経営戦略上の意味合いを持つことを伝えると、経営者の関心が変わることがあります。
協会けんぽなどの支援制度を活用する
全国健康保険協会(協会けんぽ)は、中小企業向けにさまざまな健康支援メニューを提供しています。保健師・管理栄養士の無料派遣や、健康づくりに関するセミナー支援などが含まれます。「費用ゼロで始められる施策がある」という点は、予算を出しにくい経営者への強力な訴求ポイントになります。
また、受動喫煙防止対策助成金など、健康環境整備に関連する助成金も存在します。「助成金や支援制度と組み合わせれば、自己負担を抑えて取り組める」という提案設計が、経営者の意思決定を後押しします。
担当者が一人で抱えない体制設計と外部活用
健康経営の提案が経営者に通ったとしても、担当者一人に実務が集中すると、いずれ継続が難しくなります。推進体制の設計段階から、「担当者に過度な負荷がかからない仕組み」を組み込むことが重要です。
推進責任者を役員クラスに位置づける
健康経営優良法人認定の要件においても、健康経営推進責任者を役員クラスが担うことが求められています。これは制度上の要件であるだけでなく、実務上も重要な意味を持ちます。担当者レベルの推進では、他部門との調整や予算確保に限界があります。役員が責任者として関与することで、施策に実効性が生まれます。
産業医・外部専門家を活用する
従業員50人以上の事業所には産業医の選任が義務付けられていますが、50人未満の企業でも産業医と契約することは可能です。産業医サービスを活用することで、健康診断の事後管理・長時間労働者の面談・職場環境改善の助言など、専門的な対応を外部に委託することができます。担当者の負担を軽減しながら、専門的な水準の取り組みを維持できる点で、経営者にとっても「合理的な投資」として受け入れやすくなります。
効果測定の仕組みを最初から設計する
健康経営の取り組みが「やりっぱなし」になると、経営者の関心が持続しません。欠勤率・離職率・定期健康診断の受診率・ストレスチェックの結果などを定期的に経営者に報告する仕組みを最初から設計しておくと、経営者の当事者意識が継続しやすくなります。「数字で見える化する」ことが、コミットメントを維持するうえで有効な手段です。
実践ポイント:経営者への提案を成功させる5つのステップ
- ステップ1:経営課題を起点にする——「健康経営をしましょう」ではなく、「離職コストを下げたい」「採用力を強化したい」という経営者の言葉から入る。
- ステップ2:数字で現状を見せる——自社の離職率・欠勤率・医療費を業界平均と比較し、「今、何が起きているか」を可視化する。プレゼンティーイズム試算ツールも活用する。
- ステップ3:最初のアクションを小さく設計する——「健康宣言を出す」「ストレスチェックを実施する」など、投資が小さく経営者が「やった感」を持てる入口を用意する。
- ステップ4:外部の権威・事例を使う——同業他社の健康経営優良法人取得事例、経済産業省・厚生労働省のガイドラインを引用し、「業界の流れ」として提示する。
- ステップ5:推進体制に経営者を組み込む——担当者だけでなく、役員を推進責任者に位置づけ、経営者が「参加者」になる構造を作る。
まとめ
中小企業における健康経営の推進が進まない根本原因の多くは、「経営者が動かない」という点にあります。しかし、経営者が動かない理由は「無関心」ではなく、「自分事として捉える言語・情報が届いていない」ことにあるケースが大半です。
担当者がすべきことは、健康経営の重要性を繰り返すことではなく、経営者が関心を持つ言語に翻訳して届けることです。離職コスト・訴訟リスク・採用競争力・助成金活用——これらの視点で提案を設計し直すことで、経営者の反応は大きく変わります。
健康経営は、取り組み始めるまでのハードルが最も高い施策の一つです。しかし、一度経営者のコミットメントが引き出されると、その後の推進は担当者にとって格段に進めやすくなります。「まず小さな一歩を経営者と一緒に踏み出す」設計を意識して、提案を組み立ててください。
よくある質問(FAQ)
健康経営優良法人の認定を取得するには何から始めればよいですか?
まず経営者による「健康経営宣言」の作成・公表が第一歩です。中小規模法人部門(従業員300人以下が目安)では、健康診断受診率の向上・ストレスチェックの実施・健康づくりの取り組みなどが評価項目になります。経済産業省が提供する申請マニュアルや、各地域の経済団体・健康保険組合のサポートを活用すると、担当者の負担を抑えながら申請準備を進めることができます。
従業員が50人未満でも健康経営に取り組む意味はありますか?
十分にあります。50人未満の企業には産業医選任やストレスチェックの実施義務はありませんが、労働契約法第5条の安全配慮義務はすべての事業者に適用されます。また、従業員規模が小さいほど一人の欠員や長期離脱が事業に与える影響は大きく、むしろ中小企業こそ健康管理の優先度が高いといえます。健康経営優良法人の中小規模法人部門への申請も可能で、採用競争力の向上に活用している小規模企業も増えています。
プレゼンティーイズムの損失額はどうやって試算すればよいですか?
東京大学が開発した「東大1項目版」や、日本医療政策機構などが提供する試算ツールを活用する方法があります。従業員数・平均賃金・プレゼンティーイズムによる生産性低下率(健康問題の種類によって異なる)をもとに概算額を算出できます。経営者への提案資料として活用する場合は、「保守的な推計値」を使いながら「最低でもこれだけの損失がある可能性がある」という形で提示すると、信頼性を保ちながら問題意識を喚起しやすくなります。







