「産業医にどこまで社員の情報を伝えてよいのか」「社員から”健康情報が人事に筒抜けになる”と思われたくない」——中小企業の経営者や人事担当者から、こうした声を頻繁に耳にします。
産業医と人事が連携することは、社員の健康管理や職場環境の改善に欠かせません。しかし、その連携が個人情報保護の観点から適切に行われていないと、法的リスクを招くだけでなく、社員の信頼を損なうことにもなりかねません。
本記事では、産業医と人事の情報連携において守るべきルールと、個人情報保護との両立を実現するための具体的な方法を解説します。専任の人事担当者がいない小規模事業所でも実践できる内容を中心にまとめていますので、ぜひ参考にしてください。
産業医と人事の情報連携に関わる法律の基本を押さえる
情報連携の範囲を正しく理解するには、まず関連する法律の要点を把握しておく必要があります。知らなかったでは済まされない規定が複数あります。
労働安全衛生法が定める情報取扱いのルール
労働安全衛生法は、2019年の改正によって第104条に「健康情報の適切な取扱い」に関する規定が明文化されました。事業者は、労働者の心身の状態に関する情報を、労働者の健康確保に必要な範囲を超えて取り扱ってはならないとされています。つまり「必要最小限の範囲でのみ扱う」という原則が法律上の義務となっています。
また、ストレスチェック制度(従業員50人以上の事業場に実施義務)では、個人のストレスチェック結果を本人の同意なく事業者(人事)に提供することは禁止されています(第66条の10)。これを知らずに「全員分の結果を人事担当が一括管理している」という事業場は、法令違反のリスクがあります。
個人情報保護法における「要配慮個人情報」
個人情報保護法では、健康情報は「要配慮個人情報」(第2条第3項)として、通常の個人情報よりも厳格な取扱いが求められます。要配慮個人情報とは、不当な差別や偏見が生じる可能性があるとして特別に保護が必要とされる情報のことです。
取得・利用・第三者提供には原則として本人同意が必要であり、利用目的の特定と通知・公表も義務とされています。「社内での共有だから問題ない」という考えは誤りで、会社内であっても情報の流通経路を管理する必要があります。
産業医の守秘義務との関係
産業医は医師であるため、医師法および医師倫理に基づく守秘義務を負っています。面談で得た詳細な医療情報は、本人の同意なく人事担当者や上司に開示することはできません。ただし、「就業上の措置」(業務の軽減や配置転換など)に必要な情報については、本人の同意を得た上で人事へ提供することが可能です。
この守秘義務の存在が、「産業医に相談したことが人事に知られるかもしれない」という社員の不安につながっています。逆に言えば、このルールを社員にきちんと伝えることで、信頼関係を築くことができます。
産業医から人事への情報提供:正しい流れと「伝え方」の原則
産業医から人事に情報が提供される際には、情報の「内容」と「手順」の両方が重要です。多くの事業場でこの流れが曖昧なまま運用されており、それが法的リスクや社員との信頼関係の崩壊につながっています。
情報連携の基本的な流れ
社員に健康上の課題が生じた際の、適切な情報の流れは以下のとおりです。
- 社員の健康課題が発生する(長時間労働、メンタル不調など)
- 産業医が社員と面談を行い、詳細な状況を把握する
- 産業医が「就業上の意見・配慮事項」をまとめた意見書を作成する
- 本人の同意を得た上で、意見書を人事・上司に提供する
- 人事が意見書をもとに業務軽減・配置転換などの措置を決定する
この流れで最も重要なのは、「診断名」ではなく「就業上の配慮事項」として情報を伝えるという原則です。たとえば、「うつ病と診断された」という医療情報ではなく、「残業は月20時間以内・夜勤禁止・週1回の状況確認が必要」という形で人事に伝えることが、個人情報保護と就業管理の両立につながります。
よくある誤った運用例
実務で見られる誤った運用例として、次のようなケースがあります。
- 産業医から聞いた「うつ病」という診断名を、人事担当者が上司に口頭で共有してしまう
- ストレスチェックの高ストレス者リストを人事担当者が一覧管理し、上司へのフォローに活用している
- 本人の同意を取らないまま、産業医の意見を会議の場で共有している
- 面接指導(長時間労働者への産業医面談)の実施状況を人事が追跡管理している
これらは法令違反または違反に近い運用であり、発覚した場合には行政指導や社員からの損害賠償請求につながる可能性があります。産業医サービスを活用し、専門家との適切な連携体制を整えることが重要です。
アクセス権限の階層化:誰がどの情報を見てよいか
情報連携において、もう一つの重要な柱が「情報へのアクセス権限の階層化」です。すべての情報をすべての関係者が見られる状態にしておくことは、法的にも倫理的にも問題があります。
情報の種類ごとの閲覧権限の考え方
厚生労働省が2018年に策定した「労働者の心身の状態に関する情報の適切な取扱いのために事業場が講ずべき措置に関する指針」では、情報へのアクセス権限を職務別に明確化することが求められています。実務上は以下のような整理が一般的です。
- 診断名・詳細な医療情報:産業医・産業保健スタッフのみ閲覧可能
- 就業上の意見・配慮事項:人事担当者・直属上司(必要最小限の範囲で)
- 健康診断の有所見情報(異常値があった項目など):産業医と人事担当者(制限付き)
- ストレスチェック個人結果:原則として本人のみ。事業者への提供は本人同意が前提
- 集団分析結果(部署・匿名集計):事業者へ提供可能。職場環境改善に活用できる
電子データで健康情報を管理している場合は、システム上のアクセス権限設定と、実際の閲覧ログの保持も求められます。「設定はしているが記録は残していない」という状態では、万が一の際に運用の適正さを証明できません。
小規模事業所での現実的な管理体制
専任の人事担当者がおらず、総務担当や経営者が兼務している事業場では、完全な階層化が難しいケースもあります。その場合でも、最低限、以下の点を守ることが重要です。
- 健康情報が記載された書類・データは、業務上関係のない人物がアクセスできない場所・フォルダに保管する
- 口頭での情報共有を最小限にし、共有した場合は記録に残す
- 産業医からの意見書は、人事担当者(または経営者)のみが閲覧できる形で保管する
健康情報取扱規程の整備:社員の信頼を守る仕組みづくり
個別の場面での対応を適切に行うためには、事業場全体のルールとして「健康情報取扱規程」を整備することが不可欠です。厚生労働省の指針でも策定が強く推奨されています。
取扱規程に盛り込むべき内容
健康情報取扱規程には、少なくとも以下の内容を明記することが望まれます。
- 取り扱う情報の種類(健康診断結果、面接指導記録、ストレスチェック結果、通院・服薬情報など)
- 情報の利用目的(就業上の措置のため、職場環境改善のため、など)
- 情報を閲覧できる職務・役職の範囲
- 情報の取得・提供時における本人同意の手続き
- 情報の保管期間と廃棄方法(産業医の意見書などは5年間保存が原則)
- 同意撤回の方法と撤回後の取扱い
- 違反した場合の対応
本人同意取得の実務上の注意点
同意取得は書面または電子記録で行うことが基本です。「口頭で了承を得た」では、後に同意の有無が争点になった際に証明できません。同意書には「何のために」「誰に」「どの情報を」共有するかを具体的に記載し、社員が内容を十分に理解した上でサインできるように配慮してください。
また、同意は任意であることも必ず明記してください。「同意しないと不利益になる」と受け取られるような状況での同意取得は、法的に無効となる可能性があります。
規程の整備と同時に、入社時や改定時には従業員への周知を丁寧に行うことが、社員の不安解消と信頼構築につながります。「健康情報の管理ルールが明確に決まっている」と伝えることで、「人事に筒抜けになるのでは」という不信感を払拭できます。
メンタルヘルス対応での情報連携:最も迷いやすいシーンの対処法
産業医と人事の情報連携で最も難しく、かつ迷いやすいのがメンタルヘルス不調者への対応です。うつ病疑いの社員について「何を」「誰に」「どのように」伝えるかは、慎重に判断する必要があります。
上司への情報共有の範囲
メンタル不調の社員の直属上司に対して、人事が伝えてよい情報は原則として「就業上の配慮事項」のみです。「うつ病と診断されている」「精神科に通院している」といった情報を上司に伝えることは、本人の同意がない限り不適切です。
一方で、「残業を週10時間以内に制限してほしい」「定期的に業務状況の確認を行ってほしい」といった配慮事項については、適切な職場サポートのために上司が知っておく必要があります。情報の「性質」を変換して伝える——この感覚が実務上の鍵となります。
社員が産業医面談を希望しやすい環境整備
メンタルヘルス不調の早期発見・対応のためには、社員が気軽に産業医に相談できる環境が必要です。「産業医に相談すると人事に伝わってしまう」という誤解が広まると、相談をためらう社員が増え、重症化してからの対応を余儀なくされます。
産業医面談の内容が人事に伝わる仕組みと伝わらない範囲について、社内で丁寧に周知することが重要です。また、産業医面談だけでなく、メンタルカウンセリング(EAP)のような外部の相談窓口を設けることで、「社内に知られたくない」という社員のニーズにも応えられます。EAP(Employee Assistance Program)とは、従業員の心理・生活上の問題を外部専門家がサポートするプログラムのことで、相談内容は事業者に報告されないため、社員が安心して利用しやすい特徴があります。
実践ポイント:今日から取り組める5つのステップ
ここまでの内容を踏まえ、実際に取り組める具体的なアクションをまとめます。
- ステップ1:現状の情報の流れを「見える化」する
現在、誰がどの健康情報にアクセスできているかを整理します。健康診断結果、ストレスチェック結果、産業医の意見書それぞれの保管場所と閲覧者を書き出してみてください。 - ステップ2:健康情報取扱規程を整備(または見直し)する
規程がない場合は新たに策定し、ある場合は現在の法令・指針に照らして見直します。厚生労働省のモデル規程も参考にできます。 - ステップ3:産業医との役割分担を明確にする
産業医訪問の際に「人事に伝えてよい情報の範囲」「就業上の意見書の様式」について合意します。月1回の訪問でも、この合意があれば連携の質が大きく変わります。 - ステップ4:社員への周知と同意取得を行う
取扱規程の内容を社員に説明し、健康情報の利用目的と共有範囲について理解を得た上で同意書を取得します。新入社員には入社時のオリエンテーションで説明する機会を設けるとよいでしょう。 - ステップ5:情報連携の記録を残す習慣をつける
産業医から意見書を受け取った日時、誰に何を共有したか、本人同意の有無——これらを記録として残してください。記録は5年間保存が原則です。
まとめ
産業医と人事の情報連携は、社員の健康を守りながら職場環境を改善するために欠かせないプロセスです。しかし、その連携は「正しいルールの上に成り立つもの」でなければなりません。
重要なポイントを改めて整理すると、まず「診断名ではなく就業上の配慮事項を伝える」という原則を徹底すること、ストレスチェックの個人結果は本人同意なく人事に渡してはならないこと、情報へのアクセス権限を職務別に階層化すること、そして健康情報取扱規程を整備し社員に周知することが基本となります。
法的リスクへの恐れから連携を過度に萎縮させてしまうことも問題ですが、ルールを曖昧にしたまま連携を進めることもまた問題です。「どこまで共有してよいか」の判断基準を明確にし、社員が安心して相談できる体制を整えることが、最終的には職場全体の健康と生産性の向上につながります。
中小企業では一人で担当しなければならない業務が多く、こうした整備が後回しになりがちです。しかし、対応が必要になってからでは手遅れになることもあります。できるところから一歩ずつ取り組んでいただければと思います。
よくある質問
Q. 産業医が面談で聞いた内容は、すべて人事に報告されるのですか?
いいえ、すべてが報告されるわけではありません。産業医は医師としての守秘義務を負っており、面談で得た詳細な医療情報(診断名・通院状況・服薬内容など)は、本人の同意なく人事に開示することができません。人事に伝えられるのは原則として「就業上の配慮事項」(例:残業制限の必要性、業務内容の変更提案など)であり、それも本人の同意を得た上で提供されます。社員の方にもこの仕組みを説明することで、面談への抵抗感を減らすことができます。
Q. ストレスチェックの結果を人事が管理してはいけないのでしょうか?
個人のストレスチェック結果については、本人の同意なく事業者(人事)に提供することは労働安全衛生法第66条の10で禁止されています。したがって、個人結果を人事担当者が一括管理する運用は法令違反になる可能性があります。ただし、部署ごとの集計データ(集団分析結果)は、個人が特定されない形であれば事業者に提供可能であり、職場環境改善のための活用が推奨されています。面接指導の申出者リストについても、人事が管理することはリスクがあるため、産業医または外部機関が管理する体制が望ましいとされています。
Q. 健康情報取扱規程は、どのくらいの規模の会社から必要ですか?
法律上、規程の策定が義務とされているわけではありませんが、厚生労働省の指針(2018年策定)では事業場の規模にかかわらず策定が強く推奨されています。従業員が数名程度の小規模事業場であっても、健康情報を取り扱う以上はルールを明文化することが望ましいとされています。規程がない場合、情報の管理範囲や同意取得の有無が不明確になり、トラブルが生じた際に対応が困難になることがあります。厚生労働省が公表しているモデル規程を参考に、自社の実態に合わせた内容で整備することをお勧めします。
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