ストレスチェック制度が2015年に義務化されてから10年近くが経過しました。毎年実施しているものの、「誰が何をすべきか正確に把握できていない」「人事担当者がどこまで関与してよいのか分からない」という声は、中小企業の現場で今も多く聞かれます。特に、「実施者」と「実施事務従事者」の違いを曖昧なまま運用していると、個人情報の漏洩やプライバシー侵害といった深刻なリスクにつながりかねません。
本記事では、ストレスチェック制度における実施者と実施事務従事者それぞれの選任要件・役割・責任の範囲を法令に基づいて整理し、中小企業が実務で押さえておくべきポイントをわかりやすく解説します。
ストレスチェック制度の法的根拠と体制の全体像
ストレスチェック制度は、労働安全衛生法第66条の10を根拠とし、常時使用する労働者が50人以上の事業場に対して毎年1回の実施を義務づけています。詳細な手続きは労働安全衛生規則第52条の10〜第52条の21およびストレスチェック指針(平成27年厚生労働省告示第433号)に定められています。
なお、50人未満の事業場については現在努力義務とされていますが、2026年4月から義務化されることが改正労働安全衛生法により決定しています。今のうちから体制を整えておくことが重要です。
制度を運営するうえで登場する主な役割は以下の3つです。
- 実施者:ストレスチェックの結果を評価し、高ストレス者を判定する責任者
- 実施事務従事者:調査票の配布・回収・データ入力など事務作業を担う者
- 事業者(会社):制度の整備・環境改善・集団分析の活用を担う経営者・人事担当者
この3者の役割と情報へのアクセス権限を明確に分けることが、制度の適正運用の大前提となります。
実施者の選任要件:誰がなれるのか
「実施者」とは、ストレスチェックの実施を主導し、調査票の選定や高ストレス者の判定(評価)を行う専門的な責任者のことです。事業者(会社)は実施者になることができません。これは、会社側が結果を恣意的に活用することによる利益相反を防ぐためです。
実施者になれる資格・職種
実施者として認められる職種は、法令上以下のとおり定められています。
- 医師:産業医・かかりつけ医・外部医師など、医師免許を持つ者であれば追加の研修は不要
- 保健師:保健師免許を持つ者であれば追加の研修は不要
- 研修修了者:看護師・精神保健福祉士・公認心理師・歯科医師のうち、厚生労働大臣が定める所定の研修を修了した者
特に注意が必要なのは、看護師・精神保健福祉士・公認心理師・歯科医師については、資格を持っているだけでは不十分という点です。所定の研修(日本産業カウンセラー協会・産業医科大学等が実施)を修了していなければ実施者にはなれず、研修未修了のまま実施者を担わせると法令違反となります。
産業医がいない場合の対応
「産業医がいないので誰に実施者を頼めばよいか分からない」という相談は中小企業で非常に多く見られます。産業医がいる場合は産業医が実施者になることが望ましいとされていますが、これは義務ではなく推奨です。産業医がいない、または月1回程度の非常勤訪問のみで実務が回らない場合は、次の選択肢があります。
- 外部機関への委託:EAP(従業員支援プログラム)機関や健康診断機関など、実施者を擁する外部サービスに委託する
- 地域産業保健センター(地産保)の活用:労働者数50人未満の事業場を主な対象として、無料または低コストで産業保健サービスを提供している公的機関。実施者の確保にも活用できる
- 保健師・研修修了の看護師への依頼:外部の保健師や研修修了済みの看護師に実施者を依頼することも可能
コスト面で産業医の選任が難しい場合でも、メンタルカウンセリング(EAP)を含む外部委託サービスを活用することで、実施者の確保と同時に従業員のメンタルヘルス支援体制を整えることができます。
実施事務従事者の要件:人事担当者はどこまで関与できるか
「実施事務従事者」とは、ストレスチェックの実施に関する事務——調査票の配布・回収・データ入力・封書の封入・結果通知の補助など——を担う者です。実施者とは異なり、特定の資格は必要ありません。一般の労働者でも担当することができます。
実施事務従事者になれない者
資格要件はないものの、以下に該当する者は実施事務従事者になることができません。
- 人事権を持つ者:解雇・降格・昇進・給与決定などの権限を有する人事部長、直属の上司など
これは、人事権を持つ者がストレスチェックの個人情報に接触することで、結果が不利益な人事決定に利用されるリスクを防ぐためです。たとえば、「直属の上司が事務従事者を兼ねる」という運用は法令の趣旨に反します。人事権者を事務従事者から除外する旨を社内規程に明記しておくことを強くおすすめします。
守秘義務と罰則
実施事務従事者には、労働安全衛生法第104条に基づく守秘義務が課されます。職務上知り得た個人情報を漏らしてはなりません。この規定に違反した場合、6か月以下の懲役または50万円以下の罰金という刑事罰が科される可能性があります。
実務上は、事務従事者を選任した際に守秘義務誓約書を書面で取得することが望ましいとされています。形式的な手続きに見えるかもしれませんが、万一の情報漏洩トラブルの際に会社側の適正管理を示す証拠にもなります。
情報管理のルール:人事担当者が個人結果を見てはいけない理由
ストレスチェック制度において、最も誤解が多いのが情報管理のルールです。「うちの人事担当者が集計も確認もやっています」という事業場を時折見かけますが、これは法令違反となる可能性があります。
個人結果へのアクセス制限
ストレスチェックの個人結果にアクセスできるのは、実施者・実施事務従事者のみです。事業者(経営者・人事担当者)は、本人の同意なく個人の結果を入手することはできません。
この点は制度の根幹にかかわるルールであり、「会社がお金を出して実施しているのだから結果を見る権利があるのでは」という感覚は法的には通用しません。個人が安心して正直に回答できる環境を担保するために設けられたルールです。
事業者が活用できる「集団分析」
一方で、10人以上の集団を単位とした集計・分析(集団分析)は、事業者が活用することが認められています。個人が特定されない形での集計データであれば、職場環境の改善や部署ごとの課題把握に役立てることができます。
毎年ストレスチェックを実施しているものの「やっているだけ」で結果を活かせていない事業場は、この集団分析を衛生委員会(労働者の健康管理等を調査審議するための機関)で共有し、具体的な職場改善のPDCAサイクルに組み込むことが有効です。
なお、個人結果は5年間の保存が義務づけられています。保存方法(紙・電子データ)にかかわらず、アクセス権限の管理を徹底してください。
外部委託時の責任の所在と契約上の注意点
実施者や実施事務を外部機関に委託する場合、「外部に任せているから安心」と考えるのは危険です。ストレスチェック制度の最終的な責任は事業者(会社)にあります。外部委託はあくまで業務の一部を代行してもらうものであり、法的責任の所在は変わりません。
外部委託時に確認すべき事項
- 委託契約書に守秘義務条項を明記する:委託先が情報を漏洩した場合の責任関係を明確にしておく
- 実施者の資格要件を確認する:委託先に配置されている実施者が法令上の要件を満たしているか確認する(特に研修修了要件)
- 事業場内の窓口担当者(実施事務従事者)を明確にする:外部委託していても、社内に窓口となる実施事務従事者を定めておくことが望ましい
- データの保管場所と管理方法を確認する:クラウドサービス等を利用する場合、データが国内サーバーに保管されているか、セキュリティ基準を満たしているかを確認する
外部の産業医サービスを活用することで、産業医が実施者を兼ねる体制を整えながら、面接指導や就業措置のアドバイスまで一貫してサポートを受けることも可能です。委託先を選定する際は、ストレスチェック実施後のフォローアップ体制まで含めて比較検討することをおすすめします。
実践ポイント:体制整備のチェックリスト
以上を踏まえ、中小企業の経営者・人事担当者が今すぐ確認・整備すべき実践ポイントをまとめます。
選任・体制構築
- 実施者が法令上の資格要件(研修修了要件を含む)を満たしているか確認する
- 実施者と会社の間で守秘義務に関する契約または誓約書を締結する
- 実施事務従事者に人事権者が含まれていないか見直す
- 実施事務従事者から守秘義務誓約書を取得する
- 社内規程に人事権者の除外を明記する
情報管理
- 個人結果へのアクセス権限を実施者・実施事務従事者のみに限定する
- 結果の5年間保存ルールと保存媒体の管理方法を定める
- 集団分析結果を衛生委員会で共有し、職場環境改善に活用する
産業医不在・50人未満の事業場
- 地域産業保健センター(地産保)への相談を検討する
- 外部EAP機関・健診機関等への委託を検討し、委託契約書の内容を精査する
- 2026年4月の義務化に向けて今から体制を整える
実施後のフォローアップ
- 高ストレス者への面接指導申し出の勧奨を実施者が行う仕組みを確認する
- 面接指導後、産業医が就業上の措置について意見を述べる流れを整備する
- ストレスチェックの結果を翌年の実施・職場改善に反映させるPDCAを確立する
まとめ
ストレスチェック制度を適正に運用するためには、「実施者」「実施事務従事者」「事業者」の3者の役割と情報へのアクセス権限を明確に分離することが大原則です。実施者には法令上の資格要件があり、人事権者は事務従事者から除外しなければなりません。また、個人の結果は本人の同意なく事業者が入手することは禁じられており、違反した場合には刑事罰も含む法的リスクが生じます。
産業医がいない・人員が少ない・コストが限られているという中小企業特有の制約の中でも、地域産業保健センターや外部委託サービスを上手に活用することで、法令を遵守しながら実効性のある体制を構築することは十分に可能です。毎年「やっているだけ」になってしまっているストレスチェックを、従業員のメンタルヘルス保護と職場改善に本当に役立てるための第一歩として、まずは今の体制が法令の要件を満たしているかどうかを今一度確認してみてください。
よくある質問(FAQ)
Q. 産業医を選任していますが、必ず産業医を実施者にしなければなりませんか?
産業医が実施者になることは「望ましい」とされていますが、法律上の義務ではありません。産業医以外の保健師や研修修了の看護師・精神保健福祉士・公認心理師などを実施者とすることも認められています。ただし、産業医が実施者を兼ねることで面接指導や就業措置との連携がスムーズになるため、可能であれば産業医に実施者を担ってもらう体制が望ましいといえます。
Q. 人事担当者は実施事務従事者になれますか?
人事担当者であっても、解雇・降格・昇進・給与決定などの人事権を持たない担当者であれば、実施事務従事者になること自体は法令上禁止されていません。ただし、人事部長など人事権を持つ職位にある者は実施事務従事者になることができません。また、実際に人事権のない担当者が事務を担う場合でも、守秘義務誓約書の取得と情報管理の徹底が必須です。
Q. 外部機関に委託すれば会社側の法的責任はなくなりますか?
なりません。外部委託はあくまでも業務の代行であり、制度の実施に関する最終的な法的責任は事業者(会社)にあります。委託先が守秘義務違反や不適切な運用を行った場合でも、会社としての管理責任は問われる可能性があります。委託契約書に守秘義務条項を明記し、委託先の資格要件や情報管理体制を事前に確認することが重要です。
Q. 従業員が50人未満ですが、今からストレスチェックの準備が必要ですか?
はい、早めの準備を強くおすすめします。50人未満の事業場は現在努力義務とされていますが、2026年4月から義務化されることが決定しています。体制整備には実施者の確保・社内規程の整備・情報管理ルールの策定など一定の準備期間が必要です。コスト面が心配な場合は、地域産業保健センター(地産保)への相談が無料で利用できます。







