「健康経営を推進したいが、社内に詳しい人間がいない」「担当者を育てようとしても、何から手をつければよいかわからない」——中小企業の経営者や人事担当者から、こうした声を聞く機会が増えています。
健康経営とは、従業員の健康管理を経営課題として捉え、戦略的に取り組むことで生産性の向上や優秀な人材の定着を図る経営手法です。近年、経済産業省による健康経営優良法人認定制度(中小規模法人部門:ブライト500など)の普及を受け、中小企業でも取り組みが本格化しつつあります。しかし、専任担当者を置くほどの余裕がない、兼任でこなすしかないというのが多くの中小企業の現実ではないでしょうか。
この記事では、健康経営推進担当者をゼロから育てるための具体的なステップ、よくある失敗パターン、そして中小企業が活用できる外部リソースまでを体系的に解説します。担当者を孤立させず、組織全体で健康経営を根付かせるためのヒントとして、ぜひ参考にしてください。
なぜ中小企業で健康経営推進担当者の育成が難しいのか
中小企業における健康経営の推進が思うように進まない背景には、複数の構造的な課題が絡み合っています。まずその実態を整理しておくことが、育成計画を立てる上での出発点となります。
担当者に過度な負荷がかかりやすい構造
多くの中小企業では、健康経営の担当業務は人事・総務・経理などとの兼任で割り当てられます。その結果、担当者は日々の業務をこなしながら、健康経営に関する知識習得や施策立案まで求められる状況に置かれます。十分なサポートがなければ、担当者が疲弊して退職してしまうケースも少なくありません。
また、担当者が苦労して知識やノウハウを蓄積しても、異動や退職によって知識が引き継がれない「属人化リスク」も深刻です。担当者個人の能力に依存した体制は、持続可能な健康経営の推進を妨げる根本的な問題といえます。
学習すべき領域が広く、優先順位がつけにくい
健康経営を推進するためには、労働安全衛生法・健康増進法などの法令知識、健診データやストレスチェック結果の読み方・活用法、産業医や健康保険組合(以下、健保組合)との連携方法、さらには施策の効果測定まで、非常に幅広い知識が必要です。
どこから学べばよいかわからないまま闇雲に情報収集しても、実務に活きる知識にはなりにくいのが現実です。経営者・人事担当者には、担当者が段階的にスキルアップできるような「育成の道筋」を示すことが求められます。
経営層のコミットメントが得られにくい
健康経営の効果——たとえば離職率の低下や生産性の向上——は短期間では数字に現れにくいため、経営層の理解や支援を得ることが難しいという声も多く聞かれます。担当者に任せきりで経営層が関与しない体制では、予算確保も社内周知も進みません。担当者育成と並行して、経営層を巻き込む仕組みを作ることが不可欠です。
健康経営推進担当者の育成5ステップ
担当者を体系的に育てるためには、段階を踏んだ育成計画が有効です。以下の5つのステップを参考に、自社の状況に合わせてカスタマイズしてみてください。
ステップ①:基礎知識の習得
まず土台となるのは、健康経営の概念と関連法令の基本的な理解です。
- 健康経営の経営的メリット(採用力の向上、医療費・休職コストの抑制、生産性向上など)を自分の言葉で説明できるようにする
- 労働安全衛生法(安衛法)の基本を押さえる。常時50人以上の事業場では産業医・衛生管理者の選任、ストレスチェックの実施、長時間労働者への医師面接指導が義務づけられています。常時10人以上50人未満の事業場では衛生推進者または安全衛生推進者の選任義務があります
- 健康経営アドバイザー資格(東京商工会議所認定)の取得を目指す。入門資格として内容が平易で、担当者が健康経営の全体像を掴むのに適しています
この段階では「完璧な専門知識」よりも、健康経営の意義と自社における位置づけを理解することを優先してください。
ステップ②:社内実態の把握とデータ活用
基礎知識を習得したら、次は自社の健康課題を「見える化」するスキルを身につけます。
- 定期健康診断結果・ストレスチェック結果・時間外労働データなどを収集し、傾向を読み取る
- 協会けんぽ発行の健康スコアリングレポートを活用する(加入事業所向けに無料提供されており、自社従業員の健康状態を同業他社と比較できます)
- Excelなどのツールでデータをグラフ化し、経営層や従業員にわかりやすく伝える資料作成スキルを磨く
健康経営を「なんとなく良いこと」ではなく「数字で語れる課題」として捉えられるようになることが、このステップの目的です。
ステップ③:施策立案・推進スキルの習得
課題が見えたら、具体的な施策を立案し、PDCAサイクル(計画→実施→評価→改善)を回すスキルを実践の中で習得します。
- 産業医との連携方法を学ぶ。産業医はあくまで医学的な助言を行う専門職であり、健康施策の推進主体は事業者側の担当者です。産業医に何を相談すべきか、どう連携するかを理解することが重要です
- 協会けんぽや健保組合が提供する特定保健指導・健康支援サービスを把握し、活用する
- 施策の参加率・改善率などの効果測定指標(KPI)を設定し、経営層への報告資料を作成する習慣をつける
外部の専門家との適切な連携が担当者の孤立を防ぎ、施策の質を高めます。産業医との関係構築については、産業医サービスを活用することで、専門家との連携体制を整えやすくなります。
ステップ④:組織への定着と横展開
担当者個人のスキルアップにとどまらず、知識と取り組みを組織全体に根付かせることを目指します。
- 健康経営優良法人認定の申請プロセスそのものを育成プログラムとして活用する。申請に必要な書類の整備や取り組み内容の言語化を通じて、社内体制が自然と整っていきます
- 社内勉強会の開催やマニュアルの整備によって、担当者が替わっても引き継げる「仕組み」を作る
- 管理職・現場リーダーを巻き込み、健康経営を人事部門だけの課題にしない
ステップ⑤:継続的な改善と担当者のキャリア支援
育成の最終ステップは、担当者が自律的に健康経営を継続・改善できる体制を整えることです。
- 担当者の上位資格取得を支援する。健康経営アドバイザーの上位資格として、東京商工会議所が認定する健康経営エキスパートアドバイザーがあります。より高度な知識と実践力の習得を目指す担当者に適しています
- 担当者が社外コミュニティや勉強会に継続参加できるよう時間・費用面で支援し、最新情報のキャッチアップと横のつながりを維持できる環境を整える
- 担当者の業務成果を評価制度に組み込み、健康経営推進を担当者のキャリア形成と結びつける。これにより、優秀な担当者が「割を食う役回り」と感じることなく、長期的に関与し続けられる環境が生まれます
担当者を育てるために活用できる外部リソース
中小企業が単独で健康経営の推進体制を整えることには限界があります。無料または低コストで利用できる外部支援を積極的に活用することが、現実的かつ効果的なアプローチです。
産業保健総合支援センター(さんぽセンター)
全国47都道府県に設置されている産業保健総合支援センター(さんぽセンター)は、事業者・担当者向けに無料の研修や専門家相談を提供しています。産業医・保健師・労務管理の専門家による個別相談も可能で、中小企業が専門家の知見を得るための重要な窓口となっています。担当者が最初に頼るべき公的リソースの一つといえます。
協会けんぽの健康経営サポート事業
中小企業の多くが加入している全国健康保険協会(協会けんぽ)は、健康経営のサポートプログラムを提供しています。健康スコアリングレポートの提供に加え、健康経営に取り組む事業所向けのセミナーや支援事業も展開されています。加入事業所であれば活用できるため、まず協会けんぽの都道府県支部に問い合わせてみることをお勧めします。
健康経営アドバイザー・健康経営エキスパートアドバイザー資格
東京商工会議所が認定する健康経営アドバイザーおよび上位資格の健康経営エキスパートアドバイザーは、担当者が健康経営の知識を体系的に習得するのに役立ちます。入門資格である健康経営アドバイザーは学習コストが比較的低く、担当者が全体像を掴む第一歩として適しています。資格はあくまで知識習得の証明であり、実務経験の積み重ねと組み合わせることで初めて意味を持つ点に注意が必要です。
社外コミュニティ・勉強会への参加
健康経営推進担当者向けのコミュニティや勉強会に参加することで、他社担当者の実践事例や失敗談を学ぶことができます。孤立しがちな担当者にとって、同じ課題を持つ仲間とのつながりは精神的な支えにもなり得ます。地域の商工会議所や業界団体が主催するイベントも活用の機会になります。
担当者育成でよくある失敗パターンと対策
育成の取り組みが途中で頓挫する企業には、共通した失敗パターンが見られます。あらかじめ把握しておくことで、同じ轍を踏まずに済みます。
失敗①:担当者に丸投げして孤立させてしまう
健康経営の担当を命じながら、予算も権限も与えず、相談相手もいない状態に置いてしまうことは、担当者の疲弊と離職につながります。経営者は担当者の業務範囲と権限を明確にし、定期的に進捗を確認する場を設けることが重要です。経営層が関与する姿勢を見せることで、社内の他部署も協力しやすくなります。
失敗②:研修・セミナー参加のみで実践の場を与えない
外部研修に参加させるだけでは、知識は定着しません。研修後に「何を社内で実践するか」を担当者と一緒に設定し、小さなプロジェクトであっても実際に動かす機会を与えることが、スキル定着の鍵になります。OJT(現場での実践的な学習)を育成の中心に据える考え方を取り入れてください。
失敗③:引き継ぎ体制を整えずに属人化させてしまう
担当者が異動・退職した際に、それまでの取り組みが白紙に戻ってしまうケースは多くの中小企業で見られます。担当者が蓄積した知識や施策の記録をマニュアル・データベースとして整備し、常に第三者が引き継げる状態にしておくことが重要です。「担当者1人の頭の中にある健康経営」から「組織に蓄積された健康経営」への転換を意識してください。
失敗④:健康経営を福利厚生・イベントと混同してしまう
「健康経営=ウォーキングイベントや社員食堂の充実」という誤解は、戦略性やデータ活用の視点を欠落させます。健康経営の本質は、従業員の健康状態を定量的に把握し、経営課題として位置づけることです。個々の施策は手段であり、目的は生産性の向上・離職率の低下・医療費の抑制といった経営的成果にあります。この視点を担当者と共有することが、育成の基盤となります。
実践ポイント:中小企業が今すぐ始められること
以上を踏まえ、担当者育成を実際に動かすための具体的なアクションをまとめます。
- 担当者を指名し、業務範囲と権限を明文化する。兼任であっても、健康経営担当としての役割を公式に認めることが第一歩です
- 健康経営アドバイザー資格の取得を支援する。学習コストは比較的低く、担当者が全体像を掴むのに有効です
- 産業保健総合支援センターに相談する。無料で専門家の知見を得られる公的リソースを早期に活用してください
- 協会けんぽの健康スコアリングレポートを読み解く場を設ける。担当者と経営者が一緒にデータを確認することで、課題共有と経営層の関与が促されます
- 健康経営優良法人認定を中期的な目標に設定する。申請プロセスを通じて体制整備が進み、担当者の育成ゴールとしても機能します
- メンタルヘルス対策として外部支援を組み合わせる。担当者の負担軽減と従業員支援の両立には、メンタルカウンセリング(EAP)のような外部専門サービスの導入も選択肢に入れてください
まとめ
健康経営推進担当者の育成は、一朝一夕には実現しません。しかし、段階的な育成ステップを設計し、外部リソースを積極的に活用しながら、経営層が関与する体制を整えることで、中小企業でも着実に推進体制を築くことは可能です。
大切なのは「担当者を育てる」ことと「組織に知識を蓄積する」ことを同時に進める視点です。担当者に任せきりにせず、経営者・人事担当者が伴走する姿勢が、健康経営を持続可能な取り組みにする最大の鍵といえるでしょう。
まずは担当者の指名と役割の明確化、そして産業保健総合支援センターへの相談という二つの行動から始めてみてください。小さな一歩が、組織全体の健康経営文化を育てる出発点となります。
よくある質問
健康経営推進担当者は何人必要ですか?
法令上の人数規定はありませんが、中小企業では1名の兼任担当者からスタートするケースが一般的です。重要なのは人数よりも、担当者の業務範囲と権限を明確にし、経営層がバックアップする体制を整えることです。取り組みが拡大するにつれて、複数人での分担体制や専任化を検討するとよいでしょう。
健康経営アドバイザーと衛生管理者の資格はどちらを優先すべきですか?
常時50人以上の事業場では衛生管理者の選任が法令上義務づけられているため、該当する場合は衛生管理者資格の取得を優先してください。常時50人未満の事業場では法的な選任義務はありませんが、健康経営の全体像を学ぶ入門資格として健康経営アドバイザーは取り組みやすく、担当者の動機付けにも有効です。両資格は目的が異なるため、事業規模と担当者のスキルレベルに応じて判断することをお勧めします。
担当者が退職した場合、健康経営の取り組みはどうなりますか?
担当者の退職に備えるためには、日常的な「知識の組織化」が重要です。施策の記録・マニュアル整備・健康データの管理を担当者個人に依存せず、誰でもアクセスできる形で蓄積しておくことが対策の基本となります。また、健康経営優良法人認定の申請プロセスを通じて社内体制を文書化しておくことも、引き継ぎリスクの低減に役立ちます。








