「健康経営という言葉は聞いたことがあるけれど、具体的に何をすれば良いのかわからない」「大企業の話であって、うちのような中小企業には関係ない」——そう感じている経営者や人事担当者の方は少なくありません。
しかし、健康経営は規模を問わず取り組める施策です。むしろ、人材確保が課題となる中小企業こそ、従業員の健康を経営戦略の中心に置く意義は大きいといえます。離職率の低下、生産性の向上、採用ブランドの強化——これらはすべて、健康経営の取り組みがもたらす可能性のある成果です。
この記事では、「何から始めれば良いかわからない」という状態から、実際に健康経営を動かし始めるための具体的なステップを順を追って解説します。兼任担当者でも、限られた予算の中でも実践できる方法を中心にお伝えします。
健康経営とは何か——「健康診断をやること」ではない
まず、多くの企業に見られる誤解を解いておく必要があります。健康経営とは、従業員の健康保持・増進を経営的な視点で戦略的に実践することです。健康診断の実施はあくまでも法的義務であり、健康経営の「入口」に過ぎません。
労働安全衛生法に基づき、事業者は雇入れ時の健康診断と年1回の定期健康診断を実施する義務を負っています。しかし、健康経営の本質は、その結果をどう活用するかにあります。受診率を100%にすること、異常が見つかった従業員に二次健診を受けさせること、生活習慣の改善を継続的に支援すること——こうした一連の取り組みが「健康経営」です。
経済産業省が推進する健康経営優良法人認定制度には、従業員数おおむね300人以下の企業が対象となる「中小規模法人部門(ブライト500)」があります。認定を取得することで、採用市場での訴求力向上や取引先への信頼性アピールにつながるほか、金融機関の融資優遇を受けられるケースもあります。「認定取得のための取り組み」と考えるのではなく、「自社の課題を解決するプロセスの中で認定が取れる」という順序で捉えることが重要です。
Step 1:現状把握——数字で「見える化」する
健康経営を始める第一歩は、自社の現状をデータで把握することです。何が課題なのかを数値として「見える化」することで、取り組みの優先順位が明確になり、経営層への説明材料にもなります。
確認すべき主なデータ
- 健康診断の受診率・有所見率:受診率が低い場合はまずそこが課題。有所見率(何らかの異常が見つかった割合)が高ければ、二次健診の勧奨が急務です。
- 残業時間・長時間労働者の割合:月80時間を超える時間外労働をしている従業員がいる場合、医師による面接指導が法的に義務付けられています(労働安全衛生法第66条の8)。
- 有給休暇取得率・欠勤率:取得率が低い、あるいは欠勤が多い職場は、健康上の問題が潜んでいる可能性があります。
- 離職率:健康上の理由や職場環境への不満が退職につながっているケースは少なくありません。
- ストレスチェックの結果(実施済みの場合):常時50人以上の事業場には年1回の実施が義務付けられています。50人未満は努力義務ですが、実施することで職場のメンタルヘルス状況を把握できます。
これらのデータが手元にない、あるいは整理されていない場合でも、まずは「今わかっていること」を書き出すところから始めてください。完璧なデータを揃えることよりも、「現状を直視しようとする姿勢」がスタート地点です。
従業員アンケートも有効な手段です。「仕事上のストレスで困っていること」「職場環境で改善してほしいこと」といったシンプルな設問でも、現場のリアルな課題が浮かび上がります。
Step 2:推進体制の構築——トップのコミットメントが不可欠
健康経営が形だけの取り組みになってしまう最大の原因は、経営トップの関与が薄いことです。健康経営は人事・総務部門だけの仕事ではなく、経営戦略の一環として位置付ける必要があります。
経営者が全社朝礼や社内メッセージで「健康経営に取り組む」と宣言することは、従業員への強いシグナルになります。「会社が本気でやろうとしている」と伝わることで、従業員の協力意識も高まります。
推進体制のつくり方
- 推進担当者の明確化:兼任でも構いませんが、「誰が責任者か」を社内に明示することが重要です。
- 産業医・保健師との連携:50人以上の事業場では産業医の選任が義務です。50人未満の事業場は選任義務はありませんが、地域産業保健センター(産業保健総合支援センターが運営)を無料で活用できます。産業医への相談や健康相談サービスを提供しているため、専任の産業医を置けない中小企業にとって心強い存在です。
- 協会けんぽとの連携:中小企業の多くが加入している全国健康保険協会(協会けんぽ)は、健康診断費用の補助や保健師による健康相談など、中小企業向けのサポートサービスを提供しています。保険者との連携は健康経営の重要な柱の一つです。
また、産業医サービスを外部委託する選択肢もあります。特に、産業医の選任義務はないが専門的なサポートが必要だと感じている50人未満の企業にとって、スポット的に専門家の知見を借りる方法は費用対効果が高い場合があります。
Step 3:方針と目標の策定——「やっている感」で終わらないために
取り組みが継続しない企業に共通するのは、「何のためにやるのか」が曖昧なことです。健康経営の方針と目標を明文化することで、取り組みに一貫性が生まれます。
方針策定のポイント
「経営課題」と「健康課題」を結びつけて考えることが重要です。たとえば、「採用難が課題→健康経営優良法人の認定を取得して採用訴求力を高める」「残業が多くて生産性が落ちている→長時間労働を削減し、一人当たりのアウトプットを上げる」といった形で、経営上の問題と健康上の問題をつなげて方針を立てます。
KPI(目標指標)の設定例
- 定期健康診断の受診率:100%
- 二次健診(精密検査)の受診率:○%以上
- 月平均残業時間:○時間以下
- 有給休暇取得率:○%以上
- ストレスチェックの高ストレス者割合:○%以下
最初から高い目標を設定する必要はありません。現状から1〜2年で達成できる数値を設定し、達成できたら次のステップへ進む、というPDCAサイクルを回すことが大切です。
Step 4:施策の実施——まずコストゼロでできることから
予算が限られている中小企業では、「お金をかけなければ健康経営はできない」と思い込んでしまいがちです。しかし、コストをほとんどかけずに実施できる施策は数多くあります。
すぐに始められる低コスト施策
- 二次健診の受診勧奨:健康診断で「要精密検査」「要治療」と判定された従業員に対し、上司や担当者が受診を促す仕組みをつくるだけで、従業員の重大疾病を早期発見できる可能性が高まります。
- 禁煙・分煙の推進:2020年4月に全面施行された改正健康増進法により、職場での受動喫煙防止は事業者の義務です。喫煙ルールの整備はコストゼロで始められます。
- 長時間労働者への声かけ・面談:残業が続いている従業員に対して、上司が定期的に声をかける文化をつくることは、早期のメンタルヘルス不調の発見にも役立ちます。
- 昼休みの運動奨励:「ランチタイムに近くを歩こう」という呼びかけや、歩数計アプリを使ったウォーキング集計など、ゲーム感覚で取り組める施策は従業員の参加率が上がりやすい傾向があります。
次のフェーズで検討する施策
- メンタルヘルス研修・管理職向けラインケア研修の実施
- EAP(Employee Assistance Program:従業員支援プログラム)の導入
- 食環境の整備(社内自販機への健康食品追加など)
- 健康イベント・セミナーの実施
特にメンタルヘルス対策は、中小企業でも深刻な課題になりつつあります。専門のカウンセリングサービスを提供するメンタルカウンセリング(EAP)を外部委託することで、従業員が気軽に相談できる窓口を設けることができます。社内に相談しにくい悩みでも、外部の専門家なら話せるという従業員は少なくありません。
実践ポイント:中小企業が健康経営を継続するために
健康経営の取り組みを「一時的なイベント」で終わらせないために、実務上おさえておきたいポイントをまとめます。
外部リソースを積極的に活用する
中小企業が健康経営を進める上で見落とされがちなのが、無料で利用できる外部支援機関の存在です。
- 産業保健総合支援センター(各都道府県に設置):産業医の紹介、保健師による健康相談、研修の実施などを無料で提供しています。
- 地域産業保健センター:50人未満の小規模事業場を主な対象として、産業保健サービスを無料で提供しています。
- 協会けんぽ:健康診断費用の補助や健康経営サポートプログラムを提供しています。まず保険者(協会けんぽまたは健康保険組合)の担当者に相談してみることをお勧めします。
- 商工会議所・商工会:健康経営に関するセミナーや情報提供を行っているケースがあります。
「全員参加」を求めない
健康経営の施策に全員が積極的に参加することを求めると、強制感から反発が生じることがあります。「参加した人が得をする」仕組みをつくることや、まずは有志の少人数から始めて、自然に広がっていくことを目指すアプローチが有効です。
取り組みの「見える化」と情報共有
健康経営の進捗や成果を、社内報・朝礼・掲示板などで定期的に共有することで、取り組みへの認知と関心が高まります。「昨年と比べて受診率が5%上がった」「有給取得率が改善した」といった具体的な数字を伝えることが、従業員のモチベーション維持につながります。
健康経営優良法人認定を「ゴール」ではなく「通過点」として捉える
認定取得自体を目的化してしまうと、書類整備だけで終わってしまうリスクがあります。認定取得は「これまでの取り組みの成果として得られるもの」と捉え、従業員の健康課題の解決を中心に置くことが重要です。
まとめ
健康経営の取り組みは、決して大企業だけのものではありません。中小企業でも、順序を踏んで着実に進めることで、従業員の健康維持と経営の安定化を同時に実現できます。
まず今日からできることは、自社の健康診断受診率と残業時間のデータを引き出してみることです。数字を見ることから、健康経営は始まります。
- Step 1:現状把握——データで課題を見える化する
- Step 2:推進体制の構築——トップのコミットメントと担当者の明確化
- Step 3:方針・目標の策定——経営課題と健康課題を結びつける
- Step 4:施策の実施——コストゼロの取り組みから始める
- Step 5:効果測定と改善——PDCAサイクルを継続する
専門家のサポートが必要と感じたときには、地域産業保健センターや産業医サービス、EAPなどの外部リソースを積極的に活用してください。「一人で抱え込まない」ことが、健康経営を継続するための最大のコツです。
よくある質問
健康経営は従業員が何人以上いれば始めるべきですか?
従業員数に関わらず取り組むことができます。法律上の義務(産業医選任・ストレスチェック実施など)は50人以上の事業場に生じますが、健康経営の考え方そのものは規模を問いません。数名規模の企業でも、健康診断の受診勧奨や残業削減から始められます。むしろ小規模であるほど一人ひとりの欠員や体調不良が業績に直結しやすいため、早期に取り組む意義は大きいといえます。
健康経営優良法人の認定を取得するには、何から始めればいいですか?
まず経済産業省や日本健康会議が公開している「中小規模法人部門」の認定要件を確認することをお勧めします。主な要件には、健診受診率の向上・ストレスチェックの実施・生活習慣改善に関する施策の実施などが含まれます。多くの項目は、この記事で紹介したStep 1〜4を進める中で自然に充足されていきます。まずは現状把握と基本施策の実施を優先し、申請書類の整備はそのあとに取り組むと無理がありません。
50人未満の事業場でも産業医のサポートを受けられますか?
はい、受けられます。50人未満の事業場には産業医の選任義務はありませんが、各都道府県の産業保健総合支援センターが運営する地域産業保健センターでは、産業医による健康相談や保健指導サービスを無料で提供しています。また、外部の産業医サービスに委託することで、必要なときだけ専門的なサポートを受けることも可能です。







